雪の彼方へ (9)
源吉は妻を雪洞の奥に横たえ、自分は入口に背を向けるようにして添い寝し、紀子の看病をし
ていた。
午後の一時期、怪我のためか紀子は高熱を出した。その高熱は二時間ほど続き下がったが、熱
が引くのと同時に体温も一気に下がり、震えが止まらなくなった。
源吉は妻の身体を懸命にさすり続けたが、シュラフどころかマットも無い二人から、雪は急速
に体温を奪っていった。
夜半になって紀子は目に見えて衰弱し、生気を失った。見かねた源吉が、自分のパーカーを脱
いで紀子のパーカーの上に重ね着させようとすると、ヘッドランプに照らされた紀子の顔が険し
くなった。
「源さん、お願いだからそれだけは止めて。パーカーを脱いだりしたら、直ぐに冷え切ってし
まうから・・・」
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と身体を硬直させて拒んだが、源吉は聞き入れなかった。
「俺のことは心配するな。お前を朝までさすり続けていれば、寒くなる暇なんかないよ。それ
より、無理にでも何か食べろ、温まるから。お湯もまだあるぞ」
そう言った源吉は紀子にチョコレートやクッキーなどと一緒に湯を与えたが、自分は飲む振り
をするだけで、一滴も口にしなかった。
湯を飲んだ後の紀子は、しばらくの間元気を取り戻したものの、時間の経過とともに再び生気
を失った。そんなことを幾度か繰り返すうちに食べ物を受け付けなくなり、そして、源吉の手を
グッと強く握り締めると意識を失った。
「!紀子っ・・・紀子っ、紀子ーっ」
源吉は大声で妻の名を呼びながら、紀子の身体を揺さ振った。
フッと意識を取り戻した紀子が、生気の戻った目で源吉を見詰めて言った。
「源さんありがとう、もう充分だから。それにねえ、今、とっても気持ちいいの・・・身体が
羽みたいに軽くなって、フワフワで温かくて。だからもう、このまま眠らせてちょうだい・・・
源さんは必ず生きて帰って、晃達のこと守ってやってね、お願いよ。それから、ありがとう・・・
色んなところに連れて行って、色んな景色を一緒に体験させてくれて。あんなに素晴らしい景色
を、私みたいに沢山体験出来た奥さんも、少ないわね。本当に楽しかった。全部大切に持ってい
くからね・・・晃の・・・」
紀子はそこまで言うと、源吉を見詰めていた目を静かに閉じた。
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源吉は必死になって妻の名前を呼んだ。しかし幾度呼んでも、幾度身体を揺さ振っても、紀子
の目が再び開くことはなかった。
長い時間、放心状態でいた源吉だったが、やがて我に返り、紀子の髪や顔を整えてやった。
二人で過ごした様々な想い出が次々と蘇り、涙が溢れた。零れ落ちた涙が紀子の頬を濡らした。
その頬の涙を拭ってやりながら・・・お前一人だけで行かせるものか・・・と、心を決めた。
源吉は紀子に着せた自分のパーカーのポケットから、黒いカバーのフィールドノートを取り出
し、晃と文吉に宛てた二通の手紙を書いた。冷え切って感覚を失った指先は、なかなか思うよう
に文字を綴らせてくれなかったが、気力を振り絞り、一文字一文字に心を込めて書いた。そして、
なんとか書き終えると、そのページを外して畳み、裏表紙の内側に刻まれたカードホルダーの奥
深く差し込んで閉じ、再びパーカーのポケットに戻した。
彼はヘッドランプを外して脇に置き、紀子の身体を抱えるように引き寄せた。
ヘッドランプの灯りは雪洞の中を、ぼんやりと照らしていたが二時間ほどで弱まり、雪洞の中は
次第に闇に閉ざされた。