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雪の彼方へ (5)

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 「紀子、俺は装備を取ってくる。戻ったら雪洞を掘ってやるから、待っていろよ」
 「源さん・・・気をつけてね」
 紀子は苦痛を精一杯押し殺し、平静を装って見送った。
 
 先刻事故の起こった急斜面までの約二百メートルは、大杉の踏み跡の手前を踏むようにすると
穴が大きくなり、沈んだ足が抜きやすく、どうにか進めた。
 しかし、その先の急傾斜の痩せ尾根に取り付くと腰まで埋まり、歩くというより雪の中を泳ぎ
登るような状態になった。ストックを頼りに一歩ずつ、膝を突いて雪を締めてから、その跡に足
を乗せたが、カンジキすら付けていない山靴は、膝跡を空しく踏み抜くばかりで、いっこうには
かどらない。
 全身汗だくになって登った。自分がまごまごしている間にも、妻の命の炎を消さんと吹雪が襲
い掛かっているかと思うと、源吉の身体の中から野生的な力と気力が湧き出し、彼をジリジリと
上に押し上げていった。
 ようやく撮影機材をデポった大遠見山の肩まで辿り着いた時には、横から叩きつけるような猛
吹雪で周囲は完全にホワイトアウトになっていた。勘だけを頼りに深雪の中を泳ぎ回るうち、千
切れんばかりにはためく赤布が目前に現れた。源吉は、その目印の下の雪面をかき回すように探
って、雪スコの柄尻を摑まえると一気に引き抜いた。雪スコップを手に入れられたのは正に幸運


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だった。だが、さらに山頂まで登り荷物を探し当てるなど、今の状況から考えて不可能だ。
 せめてシュラフだけでも欲しかった・・・源吉は唇を噛んだ。だが、俺が遭難したら、誰が紀
子を守るんだ・・・源吉は雪の向こうに、先を急ぐ大杉の姿を想像し、「大杉君、辿り着いてくれ。
頼む」  と、胸の内で呟いた。
 スコップを手に下り始めたが、つい今しがた自分が深々と付けてきたはずのトレイルが、すで
に消えかかっている。源吉は雪面に顔を近づけてトレイルを見付けながら、泳ぐように下りて行
った。
 
 「良かった・・・戻って来てくれて」 紀子が涙を流して喜んだ。
 「上の方は完全にホワイトアウトだ。残念だが、この雪スコを手に入れただけで戻ってきたよ。
直ぐに雪洞を掘ってやるからな」
 源吉は紀子の直ぐ横で雪洞を掘り始めた。


 白馬五竜スキー場のゴンドラの上部駅、アルプス平駅に黄色いパーカーの登山者が崩れ込むよ
うにして入ってきた。
 ただならぬ様子に気付いた従業員が駆け寄って声をかけた。
 「どうしたんですかっ!何か事故があったんですかっ!」
 大杉は地図を取り出し、中の一点を指して言った。


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 「ここで、大遠見山の手前のここで、男女二人が遭難しています。女性が片足を骨折していま
すが、装備は、ほとんど失っていると思います。早く、早く救助してあげて下さい」
 「おーいっ、松永さーんっ、遭難だーっ、来てくれーっ」
 その男が叫ぶと、真っ黒い顔にゴーグル跡のある男が駆けて来た。
 このスキー場の社員で、北アルプス北部救助隊福隊長の松永だ。
 「どうしたっ!何があったっ!」 松永が聞いた。
 駅の中が、にわかに慌ただしくなった。

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