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雪の彼方へ (4)

 「紀子っ、絶対に連れて帰ってやるぞっ」
 妻の手を握って源吉が言った。


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 紀子は激痛に耐えながら、その手を握り返した。
 源吉は青年の方に目を向けた。右足のスキーも外れた青年は、雪に胸まで埋まっていたが、自
力で抜け出してきた。
 「気をつけろっ、この下は、もっと落差のある壁だからな・・・君は大丈夫かっ?」
 「はいっ、大丈夫です・・・」
 青年は額の右端から血を流していたが軽傷ですんだようだ。しかし、紀子の深刻な事態に気づ
いた青年の顔から血の気が引いた。
 「移動させるから手を貸してくれ。慎重に動くんだぞ、この下の壁は落ちたら助からない」
 二人は深雪にひどく手を焼きながら、時に泳ぐ様に、時に這う様にして、どうにか痩せ尾根の
下部まで紀子を移動させた。
 そこで源吉は若者の手を借りて妻を背負い、ビバークするのに適当な場所を見つけるため移動
した。ほぼフラットな尾根上を二百メートルほど行くと、尾根幅の広い、小さな丘状のところを
見つけた。そして、北からの風雪の直撃を避けるため、尾根から僅か右手に下りた南斜面に紀子
を横たえた。
 風雪はいよいよ強まり、雪を叩きつけてくる。 源吉はルートの先を眺めた。直ぐ先の中遠見
山のピークは吹雪の向こうに、まだ辛うじて見えている。その先の小遠見山の山頂は、中遠見山
の陰に隠れ様子が分からない。一刻も早く誰かが下山して救助を要請しなければ、三人ともここ
で遭難することになる。
 振り返った源吉は、装備を置いてきた大遠見山山頂の方を見たが、先ほどの急斜面の上部から


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上は吹雪の中に隠れてしまった。
 源吉は大遠見山の山頂に装備を置いてきたのを後悔した。妻と初心者を抱えての弱気が焦りを
呼び、この小パーティーを一秒でも早く安全なところまで移動させようと、迷いも無く身軽になる
手段を選んだのだが・・・。
 また、こうも思った・・・今回の低気圧は強力だ。明朝までには通過してしまうという予報だ
が、台風並みの風を覚悟しなくてはならない。あの時、大遠見山山頂でテントを張り直し、雪ブ
ロックで防風壁を作ったとしても、持ちこたえることは不可能だ。最善策は雪洞を掘って篭るこ
とではなかったのか、大遠見山山頂の南側直下には、雪洞を掘るのに適した場所はあった・・・
だが今となっては手遅れだ、さあどうする。今の自分の一言に三人の命がかかっている、判断ミ
スは絶対に許されない。一瞬のうちに源吉の胸中で様々な思いが交差した。
 「君、俺のスキーを履いてみてくれ」源吉が言った。
 若者は言われるままに履こうとしたが、靴とビンディングのサイズが微妙に違っていた。
 「君の靴の方が僅かに大きいのか・・・でもこのくらいなら、ビンディングの調整で充分だ。
よし、君が俺のスキーで下って救助を要請してくれ。今ならまだ、辛うじてルートも見えている」
 「でも、そんなことをしたらお二人が・・・それに、スキーを失くしたのは僕なのに、助けて
くれた人のスキーで先に逃げ出すなんて・・・」
 「譲り合っている時間は無い。そんなことを言ってる間にルートが見えなくなったら、三人と
も遭難してしまうぞっ。俺は上に戻って装備を取ってくる。装備さえあれば、ここで雪洞を掘っ
て粘れるから。君はなんとしてもアルプス平まで下って、救助を要請してくれ。頼むっ」


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 「解りました。何が何でも救助隊を呼んできます。非常食を置いていきますか?」
 「いや、非常食と湯は、このサブザックに入っている。それより君の名前を聞いていなかった
な。私は泉源吉、こいつは紀子だ」
 「僕は大杉誠といいます。学生です・・・僕のせいでこんなことになって、本当にすいません。
奥さん、すいません・・・」
 若者は涙と鼻水を手袋の甲で拭いながら詫びた。
 「くれぐれも慎重に、気をつけて下りてくださいね」
 そう言うと紀子は微笑みながら手を上げて見せた。
 「大杉君、地図は持っているか?」
 大杉は胸の中から地図を取り出した。
 源吉はその地図の一点に、安全ピンの針で穴を開けながら言った。
 「現在地はここだ。我々はここに雪洞を掘って待つからな。雪洞の入り口には赤布のデポ旗を
立てておく。それから小遠見山の分岐と、その先にも間違えやすい所が二ヶ所ばかりあるから、
良く地図と照らしながら、ミスコースしないようにな。じゃ、急いでっ」
 二人は大急ぎでビンディングの調整を済ませ、大杉がスキーを装着した。
 「大杉君、気をつけて行けよ。頼んだぞっ」
 「必ず救助隊を呼んできます。待っていて下さい」
 源吉と視線を合わせてそう言った大杉の瞳には、強い使命感が宿っていた。
 風雪の中を大杉は遠ざかっていった。
 

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