雪の彼方へ (2)
「おい、誰か来たぞ・・・」 源吉がザックを背負う手を止めて言った。
「えっ!」
驚いた紀子が後方を振り向くと、尾根上を黄色いパーカーの登山者が一人、奥の西遠見山の方
からやって来る。
「単独か・・・何か様子が変だな、ちょっと見てくるよ」
言うが早いか源吉は、その登山者の方に向かって山スキーを進めた。
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「源さんっ、もう雪雲があふれかけているから急いでね」
「分かってるっ、確かめたら直ぐに戻るからっ」
すっかり生気を失った鹿島槍ヶ岳や五竜岳の上部は、すでに雪雲に呑み込まれていた。
「大丈夫ですかっ、怪我でもしたんですかっ?」
「いえ、怪我はしていないんですが、スキーを一本、失くしてしまって・・・」
二十代と思われるその男は、荒い息の中で力無く言った。見るとその青年はスキーを右足にし
か履いていなかった。
「失くしたって・・・今、スキーが無かったら命取りですよ。回収出来なかったんですか?」
「深雪の斜面を転がり落ちて・・・ずっと探していたんですが、見付けられなかったんです」
「低気圧に呑み込まれかけているのは分かっているんですか?」
「分かっています・・・写真撮るのに夢中になって、ついネバッテしまったんです。ゲレンデ
スキーの経験はありますから、いざとなったら滑って逃げればいいと思っていましたが、重いザ
ックを背負って下るのが、こんなに難しいとは思いませんでした」
「あなた、冬山の経験は?」
「登山は前からやっていますが、冬山は初めてです」 その若者は半泣きで言った。
風も出てきた。源吉の長い経験からすると、思案している時間が無いのは確かだった。
「とにかく、俺の連れがいる所まで行こう。ザックは俺が背負ってやるから、急いで」
「す、すいません・・・」
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若者は泣きながら必死でついて来たが、左足をつくと太ももまで沈んでしまい、その足を雪か
ら引き抜き、立ち上がるだけでも四苦八苦で、いっこうにはかどらない。スキーを履いた右足に
は既に、かなりの疲労が蓄積しているらしく小刻みに震えている。
「紀子、困ったことになった。あの若者は左のスキーを失くしてたよ。この深雪で、あれじゃ、
下りるのに何時間かかるか知れないぞ」 一足先に戻ってきた源吉が言った。
「そんな・・・この状況だと命に関わる問題よ。どうするの?」
「連れて帰るしかないよ・・・相手がベテランならともかく、この天候で初心者じゃあ、おい
ていったら見殺しにするようなものだから。ただ、彼の荷物は諦めてもらうしかないな。相当疲
労してる顔だし」
「す、すいません・・・助けてください、お願いします」
追いついた若者が、まだ幼さの残る顔をゆがめて頼んだ。
深刻な事態に巻き込まれるのは充分予想されたが、二人には自分達の一人息子と、ほぼ同じ年
恰好のこの青年を見捨てることは、とても出来なかった。
先刻まで北アルプスの連山に押しとどめられ、盛り上がっていた雪雲が、一斉に雪崩を打って
あふれ始めた。
どうする・・・妻だけ先に下らせて、自分と青年は雪洞を掘り、嵐をやり過ごすという選択肢
もある。幸いこの大遠見山山頂の南側直下には、雪洞を掘るのに好条件の場所もある。だが、雪
山において今回ほどの強力な低気圧に遭遇する経験は、いかにベテランの源吉といえど一度も無
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かった。厳冬期はただでさえ手強い北アルプス北部の稜線が、台風並みの嵐の中で、いったいど
んな状態になるのか・・・想像を越す激しい自然現象を想定しなくてはならない。自分一人なら
ともかく、妻や他人の運命まで請け負う責任の重圧が、源吉を弱気にした。
「我々の行動が一秒を争う状況だっていうことは、君にも解かるよな」
「はい・・・」
「荷物は全て、ここにデポッて三人で下るぞ。いいな」
「はい・・・」
「紀子、やはり我々も荷物を置いていこう。この荷物を背負って出来ることとは思えないし、
一分一秒でも早く脱出しないと間に合わないから。二人ともサブザックにテルモスと非常食だけ
入れて持って行くんだ」
三人は大急ぎで雪面に穴を掘り、荷物を入れて雪をかぶせると、頭に赤い布を付けた細いポー
ルを、直ぐ横に立てた。