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雪の彼方へ (1)

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 鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)や五竜岳(ごりゅうだけ)、さらに白馬岳(しろうまだけ)などの
名峰が連座する北アルプス北部。そのアプローチ尾根として知られた遠見尾根(とおみおね)は、
標高2007メートルの小遠見山(ことおみやま)を起点に、五竜岳の右の肩ともいえる、標高2541
メートルの白岳(しらたけ)へと続く、東西数キロに渡る長大な尾根だ。南北に連なる北アルプスに
対し、東から直角に架かるこの尾根からの眺望は終始素晴らしいが、尾根上にはラクダの背を
連ねた様に、小遠見山、中遠見山(なかとおみやま)、大遠見山(おおとおみやま)、西遠見山
(にしとおみやま)の四つの小ピークがあり、風景をいっそう変化に富んだものにしている。

 十八年前の二月初め、早朝の遠見尾根。
その尾根の中ほどに位置する大遠見山の直下に、赤いパーカーを着た一組の夫婦が立っていた。
尾根の左側に切れ落ちたシラタケ沢の深い谷を隔てて二人の目前には、分厚い雪を鎧(よろい)の
様にまとった鹿島槍ヶ岳が、昇ったばかりの太陽の鋭い金朱の光線を一身に受けて聳えている。
そして、その直ぐ背後には、強力な低気圧の雪雲が津波の様に迫り、八岐(やまた)の竜のごとく
雲舌(うんぜつ)を延ばして、怒り狂った様に燃え染まる鹿島槍ヶ岳と、今まさに竜虎の死闘を見せ
ていた。
 男は頑丈な三脚の上に載せた大型カメラを前に、レリーズを握った右手を上げたまま、凍結し


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たかの様に静止して、鹿島槍ヶ岳を睨んでいる。
 張り詰めた空気の中で、男の右手親指だけが静かに動き、レリーズボタンを押し込んだ。
 ジーカシャッ。レンズシャッターの静かな音がした。
 「よしっ、撤収だっ」
 最後のシャッターを切った源吉(げんきち)が妻の紀子(のりこ)に声を掛けた。
 「源さん、狙い的中だったね」
 「ああ、狙い以上でシャッター切るのが怖かったよ。これほどの条件で鹿島槍を撮影出来るな
んて、もう二度と無いかも知れないな。思い切って決行して良かったよ」
 「良かった・・・足手まといなのに連れて来てもらえて」
 「お前が足手まといになったことなんか、一度も無かったじゃないか。とは言っても油断は大
敵だ、急ごうっ」
 「私、一足先に上に行って荷造りの仕上げしてるわ。その機材は後で回収して行くんでしょ」
 「ああ、頼んだぞ、気をつけてな。片付けたら俺も直ぐに行くから」
 紀子は、裏に滑り止めのシールを貼り付けた山スキーを履くと、登高モードにしたビンディングの
踵(かかと)下から、カチャッカチャッカチャッと軽快な音を立てつつ、直ぐ上部の大遠見山山頂へ
と、標高差五十メートルを一気に登って行った。
 源吉は急いで撮影機材を専用のサブザックに詰め、畳んだ三脚とともにそこに置くと、スキーを
履いて紀子の後を追った。すでに辺りには雪雲から吹き出された風花(かざはな)が舞い始めた。


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 源吉が山頂にたどり着くと、荷造りを済ませた紀子が待っていた。
 「準備OKよ。一息入れてから下る?」
 「いや、この様子だと逃げるが勝ちだ。小遠見山の分岐まで行って、余裕があったら一息入れ
ようか。よし、下るぞ」
 源吉は紀子が重いザックを背負うのを手伝った。冬山装備で目一杯膨らんだザックが、ギシギ
シと音を立てた。
 「下の機材の入れ込みで五分ばかり取られるな・・・最悪、途中で雪に追い着かれたら、荷物
をそっくりデポッて(一時的に雪の中に埋めて)一気に滑り降りちゃうぞ。気楽にビバーク出来
るようなヤワな低気圧じゃないから」
 と言って自分もザックを背負おうとした源吉の目が、紀子の肩越し遠くに一人の登山者をとらえた。

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