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隠し沢 (6)

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 「今煮ているのは何ですかあ?」
 「これは馬のモツ煮さ。西オバが煮て、冷凍しておいたのを分けてくれたやつ。温めるだけで
直ぐに食べられるし、山に持ってくると便利なんだよ」
 「馬のモツ煮ですかあ、じゃあ、これと合いそうですね」
 ジーノが黒っぽい液体の入ったペットボトルを取り出した。
 「何それ?」
 「とっておきの赤ワインを入れてきまーした」
 「馬モツにとっておきの赤ワインか・・・今宵の夕げは豪勢(ごうせい)じゃのう」
 馬モツを赤ワインでやりながら、晃は次の料理に取り掛かった。焼いた岩魚三尾の身をほぐし、
その頭と骨だけをコッフェルに入れ、湯で満たして火に掛けた。それをしばらく煮立ててから、
二つの食器に飯を盛り、ほぐした岩魚の身と皮をのせ、頭と骨で取った出し汁を掛けると、
 「今夜のメインディッシュ、岩魚のワサビ茶漬けを召し上がれ。ワサビをたっぷりのせて・・・
塩は塩焼きした時に打ってあるけど、足りない分はお好みで振り掛けてね」
 と言ってジーノに渡した。
 米と塩以外は現地調達の、この質素にして贅沢な料理を、ジーノはしみじみと味わった。


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 キョッキョッキョッキョッキョッキョ・・・ヨタカがすぐ近くで鳴き出した。
 「不思議ですねえ・・・ワサービを調べに市場に行ったら、そこに泉さんがいて・・・もしか
したら泉さんは神様に頼まれて、あの市場にいたんじゃないですか。その後の出来事を考えると、
そうとしか思えないですねえ」
 ぼんやりと焚き火を眺めていたジーノは、そう言うとコーヒーをすすった。
 「残念ながら神様に知り合いはいないよ。築地市場の写真を撮ってくれという仕事を請けて、
たまたま居ただけさ。当然、ワサビには思い入れがあるから、どうせならワサビをたっぷり入れ
た売り場の写真も混ぜておこうと思って撮影してたら、妙な外人が妙な質問してるじゃない、
見かねて声を掛けただけさ」
 そう言うと、晃もコーヒーをすすった。
 「泉さんは、これからもずっと東京で暮らすんですかあ?・・・それとも、いつか安曇野に戻
ってきて暮らすんですかあ?」
 「・・・どうすると思う?」
 「安曇野で暮らすようになると思いますねえ」
 「どうして?」
 「だって、東京の泉さんより、こっちの泉さんの方が、本当の泉さんの様に見えますね。東京
の泉さんは、養殖池に迷い込んだ天然岩魚みたいな・・・」
 「・・・上手い例えだね。でも東京じゃ一度しか会ってないのに、そんなこと分かるのかい?」
 「誰だって両方の泉さんをみたらすぐに分かりますよ。それに私なんかに聞かなくても、自分
で分かっているくせに。仕事のためですかあ?・・・それとも奥さんが田舎嫌いとか?」


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 「うちの奥さんは、こっちに住みたいって二十年近く思い続けているよ。思いは俺より強いか
も知れないな。俺も出来ればそうしたいって、ずっと思っている。切り替えられない原因は、仕
事や生活を維持するためということも、あるにはあるんだが・・・原因は俺の病気のせいなんだ」
 「泉さんには、田舎に住むと悪化するような病気があるんですかあ?」
 「うん、心の病気がね・・・」
 「あー私、また余計なこと聞いてしまいましたねえ。許してください」
 「許すも何も・・・出来たら聞いてくれると助かるな。今まで、自分でもなるべく考えないよ
うにして来たんだけど、いよいよ身の振り方を本気で決断しなくちゃならない環境になってきて。
それにジーノさんて、直観力とか洞察力とか鋭いから、聞いてもらっている内に何か見えて来そ
うな気がするし」
 「役に立つかどうか分かりませんが、良かったら聞かせてくださーい。私の方が先に助けても
らいましたから、私もこの縁の何か役に立ちたいですねえ」
 「縁か・・・ありがとう」
 ゴクリとのどを鳴らしてコーヒーを飲み込むと、晃はゆっくり話し始めた。
 「ジーノさん、PTSDから起こるフラッシュバックっていう心の病気、知ってる?」
 「・・・衝撃的な体験で心に傷を受けた人が、後になって何かの切っ掛けで、その記憶が突然
蘇るようになる、心の病気ですねえ」
 「俺は二十三歳から、その病気にかかってしまったんだよ。専門医のカウンセリングも受けた
けど、直るどころか、かえって悪化した・・・」


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 「もしかしたら原因は、ご両親を亡くしたことと関係があるんですかあ?」
 「うん、俺の両親は・・・雪に殺されたんだ」
 「・・・・・・・」

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