隠し沢 (3)
登山道まで戻った二人は、さらに本流沿いの登山道を三十分ほど登ったところで、登山道から
右手に外れ、本流に向かって降りていった。逞しい水流が岩の間に飛沫を上げ、ゴウゴウと水音
を轟かせている。
「今日のテン場はここにしよう。ここなら川より一段高いから。まだ二時か・・・日も高いし、
夕暮れまで岩魚釣りといこうか。ジーノさんに釣り方教えてあげるよ」
「えっ!私でも釣れるんですかあ?」
「きっと釣れると思うよ。岩魚釣りは基本さえ覚えてしまえば、意外に簡単だから」
「わーおっ!」 ジーノが子どものように喜んだ。
「それから、あの花は摘んだりしちゃ駄目だよ。猛毒だからね」
晃の指差した先には、青紫の背の高い美しい花が房咲きしていた。
「きれいな花ですねえ・・・毒があるんですかあ?」
「毒も毒、猛毒だよ。トリカブトって名で、花から根まで全草猛毒、熊でも殺す」
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「きれいなのに・・・怖い人なんですねえ」
「じゃあ、水に立ち込むから、渓流スパッツも付けてくれるかい」
ジーノが支度をしている間に晃も同様の身支度を済ませ、魚篭(びく)と竿(さお)と虫篭(むしかご)を
取り出した。
二人が浅瀬に立ち込むと、目前で大石を包むように落下し、飛沫をあげている流水の中から、全
身黒褐色のカワガラスが飛び出し、下流に向かって川面スレスレを飛んで行った。
仕掛けの付いたラインの末端を竿先に結び、繰り出し式の竿を仕掛けの長さまで伸ばすと、
「今回はイナゴをエサに使うけど、エサの付け方はこうするんだよ」
と言って、晃はイナゴの尻に釣り針を掛けた。
「生きたままのイナゴを持ってきていたんですねえ・・・イナゴは岩魚釣りのエサにも使える
んですかあ?」
「うん、この時期の岩魚は水中の獲物より、水面の獲物を主に狙っているからね。だからオモ
リも付けずにイナゴを水面に浮かせて誘うんだ。コツを喋りながら釣るから、よーく見ているん
だよ。俺がお手本で一匹釣ったら、交代して釣ってもらうからね」
晃は、水際を上流に向かって少し移動すると、竿をいっぱいまで繰り出した。
「このポイントから、やってみようか・・・基本的には上流へ向かって釣り上っていくよ・・・
先ず水中の岩魚が獲物の流れて来るのを、どこで待っているかイメージ出来るようになることだ。
急な傾斜をザラザラと流れるザラ瀬や、勢いのある流心にはいないと思っていい。いくら魚でも
体力が続かないし、エサをキャッチしずらいからね。可能性の濃いのは、この時季なら流心の脇
のタルミ、ザラ瀬の上の棚状のところなんかだ。水の落っこちた両サイドの巻き返しやタルミ、
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大岩の下のタルミといった深場は、いかにもいそうだけど、そうした場所に潜むのは冬から春の
水の冷たい時期だけ。目前の川の状態から、可能性の濃いポイントを何箇所も読み取って、自分
に近いポイントから先に探っていく・・・岩魚は常に流れに逆らって泳いでいる。だから、水の
巻いている淵なんかでは、下流に向いている場合もあるから要注意だ。基本は流れにのせてエサ
を食わせる・・・岩魚は用心深くて目が良い。だから狙うポイントに近づく時は姿勢を低くして、
静かに、そして近づき過ぎない・・・先ずそこの棚尻からやってみようか・・・餌の振り込み方
はこうだ。ゆったりと、一、二、このリズム。餌は水流に同調させて、自然に流れていくように
ユラーリ・・・ユラユラ・・・岩魚が銜えたら、鋭く小さく合わせて針に掛ける、って感じ。良
いポイントなんだけど、こないね・・・じゃ、ポイントをかえて次は流心脇のタルミだ。一、二
でポト・・・ユラーリ・・・ユラ、きたっ!・・・ほらね」
一気に抜き上げた岩魚を手にした晃は、振り向いて笑ったが、直ぐにその岩魚を水に返した。
「残念ながら、リリースサイズ。じゃ、ジーノさんの番だよ」
晃は竿と仕掛けを手渡しながら、自分が父親や文吉に仕込まれた、遠い日の渓流を思い出して
いた。