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隠し沢 (2)

 「・・・感動です。これが野生のワサービですかあっ。安曇野のワサービは、こういうところ
から始まったんですねえ・・・」
 「学名ワサビア・ジャポニカ。日本原産の香辛料ワサビの故郷だ」
 「そして、水の故郷ですね・・・そうだ、泉さん、写真を撮っておいてもらえますかあ?」
 「ここのワサビの写真なら、以前に撮ったもので、もっと光の柔らかな時に撮った瑞々しいの
を沢山持っているよ。霧雨でしっとり濡れたのもあれば、花の咲いている時のもあるし」
 「その写真を、あてにしてもいいですかあ?」
 「もちろん」
 「じゃあ今回は見るだけで充分でーす」
 「今夜楽しむ分だけは採っていこう」


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 「採ってもいいんですかあ?」
 「所々から間引く程度にね。それから水辺を歩く時も、なるべく苔をはがしたり植物を踏んだ
りしないように、慎重に頼むよ」
 ジーノは水際の所々から数株のワサビを抜いたが、そのワサビの株は、昨日ワサビ畑で抜いた
ワサビとは比較にならない程、小さな株だった。
 背中のザックをそこに下ろし、身軽になった二人は、ゆっくりと小さな沢を登って行った。
 場所によっては、一角をワサビの葉がおおい尽くした所さえある。
 「ジーノさん・・・こっち、こっち来て、静かにね」
 先を登っていた晃が、岩の陰に隠れるようにして前方を見たまま手招きしている。
 「何ですか?」 そっと近づいたジーノが、小さな声で聞いた。
 「静かにね・・・ほら、あそこを見て」
 晃の指差した先には奇妙な光景があった。
 「??魚が岩にぶら下がっていますねえ??」
 「面白いねえ、岩魚だよ・・・登っている途中なのかな動かないけど。俺もこんなのを見たの
は前に一度だけだよ。やっぱりあいつはタダモノじゃないね」
 そこは人の背丈ほどの滝になっていた。沢の中央に大岩が座り、その大岩を乗り越えた水が、
ベール状に分かれて、垂直の岩肌を落ちていた。その岩魚は水流の中でなく、落下する水と水の
間、岩の露出した部分に張り付いていた。
 「もしかしたら死んでいるのが、ぶら下がっているんじゃないですかあ」


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 「いや、動いているよ・・・僅かずつだけど」
 二人は、この滅多に出会えない珍しい光景に見入っていた。
 岩魚は時間をかけて登り切ると、大岩の向こうに消えた。
 「他の沢で以前に一度だけ、こういうのと出会ったことがあるけど、その時は逆に沢を下って
いて見つけたけたんだ・・・あれと同じ様な滝の上に来て、さて、どうやって下に行こうかと覗
き込んだら、直ぐ下の岩壁に岩魚が張り付いていた。瞬間、目と目が合って、あっと思った瞬間
に、そいつは身をひるがえして、下の水中に入ってしまったんだ・・・今日、改めて目撃したか
ら、これではっきり言い切れるよ。野生の岩魚はロッククライミングが出来るって」
 「だからこんな山奥の川にも住んでいられるんですねえ・・・獲らないんですかあ?」
 「こんな条件の中で必死に生きている奴等だから、止めておこう。今夜食べる分は本流に下っ
てから釣るよ。向こうの方が形のいいのがいるから」
 「さっきの本流には大きいのがいるんですか?」
 「今のより、ずっと大きいのがいるよ」
 「それは楽しみですねえっ!早く食べてみたいですねえ、天然の岩魚を」
 「あんたって、ほんとに食いしん坊だね」
 「自慢じゃないけど自信ありまーす。ところで、この白い花は何の花ですかあ?可愛い花です
ねえ。一つの花の中に、緑色の目をした妖精が五人並んでいるみたいです。紫色の細かな水玉模
様も帽子みたいですねえ」


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 ジーノの足元に、小さな五裂の白花を幾つも咲かせた植物があった。
 「それはアケボノソウだよ。沢の愛嬌者ってところかな」
 近くの急斜面には木漏れ日を浴びて、ソバナも青紫色の可憐な花を並べている。
下の方から飛んできたキアゲハが頭上を越え、忙しく羽ばたいて上の方へと昇って行った。
ジーノは辺りを見回し、その沢の様子を丹念に記憶の中に仕舞い込んだ。

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