隠し沢 (1)
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北アルプス山中のS谷。
林道の終点に車を止めてから、二人はすでに渓流沿いの登山道を二時間程さかのぼっていた。
「ようやく目的地に到着だ。ここが秘密のワサビ沢の入口だよ」 と晃が言った。
ジーノは辺りを見回したが、それらしきものは見当たらない。
前方には、右下がりの傾斜地を原生林の奥に向かって緩やかに登って行く登山道。右下の林越
しに窺えるのは、それまでずっと、登山道と近づいたり離れたりを繰り返している水量豊富な渓流。
そして左手には厚い苔に覆われた大岩がひしめき、その岩を幹の様に太い根で抱いた木々が森を
つくっていた。
「どこにワサービ沢があるんですかあ?」
「この岩の群れを越えていった奥が、隠し沢になっているんだ」
晃が左手の岩の森に向かって言った。
「この奥に沢があるんですかあ?」
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「ここの沢の入口は、岩が積み重なって隠しているんだ。その上に生えた木で、森が出来てし
まったから、この奥に沢があるのを知っている人は、ほとんどいないんだよ」
「でも、水はあるんですかあ?」
「この森の奥で岩の下に滲み込んでしまうけど、そこより上流には、通年涸れない水の流れが
あるんだよ。岩魚っていう魚だっているんだぜ」
「そんな水の無くなってしまうような沢に、魚がいるんですかあっ!」
「だから岩魚だし、だから隠し沢なんだよ」
「じゃあ、早く行きましょう」 ジーノが岩の森に分け入ろうとした。
「おっと、ここから直接入っちゃいけないんだ。踏み跡をつけたら隠し沢の存在が知られてし
まうから、もう少し先に行って、斜めに戻るようにして入るんだ。しかも、なるべく踏み跡を残
さないために、毎回入る場所を変えるんだよ」
「・・・だから隠し沢でいられる訳ですねえ」
「そういうこと。この沢を知っている人が他にいたとしても、きっと愛着をもって、この沢を
楽しんでいると思うよ。踏み跡やワサビを抜いた跡が無いから、きっと乱獲しないで、せいぜい
楽しむ分だけ採っているんだね。だからワサビも繁茂していられるわけさ」
二人は登山道を百メートルほど進んだ所から、左手の森に入った。
一歩ずつ慎重に足を運んで、草花や幼木を踏まないようにして木立の中を行くと、間もなく苔
むした岩の重なりに達した。厚い苔が、岩と木を一体化させている。二人は、その岩や木の根に
手をかけ、岩を縫うようにして越えていった。岩の森が終わると傾斜も緩やかになり、頭上の針
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葉樹林のうっそうとした枝葉の重なりにも隙間が出来、木漏れ日が差し込んできた。
前方から水音が聞こえてくる。その水音に誘われるようにして、砂利と落ち葉を踏みしめ暫く
進むと、隠し沢が現れた。
足元の砂利や落ち葉の中に吸い込まれ、末端を消してしまう水が、その僅か先では、立派な小
沢となって、岩や木立の間を落ちている。
そして、そこの岩や木立の下には、見覚えのあるハート形の緑が点々と散在していた。