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もちつき (4)

 「ジーノさん。器が空いたなら、ちょっとかしてごらん」
 文吉はジーノのお椀を受け取ると、その中にワサビの茎を塩と熱湯で漬けた一夜漬けを入れ、


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汁を張ると、ハルに手渡した。そこにハルは再び小さく千切った餅を入れ、焼き海苔を浮かべると、
ジーノに返した。
 「それはワサビの茎の一夜漬けだが、お口にあうかどうか」
 「・・・ああ、いいですねえ・・・シャキシャキしたのと、ぷにょっとしたのが一緒になって
楽しいですねえ・・・でも、ワサービは茎も辛いんですねえ」
 「じゃあ、この生の茎をかじってみなよ」 晃が生の茎を渡した。
 「うえっ・・・苦いだけで大して辛くないし、不味いですねえ」
 「塩と熱湯で漬けると、アクが抜けて辛味や旨みが出るんですよ」 ハルが教えた。
 ジーノはその後も、酒粕(さけかす)を使ったワサビ漬けに醤油を混ぜたもの、辛味大根のオロシに
醤油、そして田舎汁粉まで、勧められるままに餅づくしを平らげた。
 「ふー・・・もう、おなか一杯でーす。ご馳走様でーす」
 「よくまあ、たんと食べてくれましたねえ」 
 「おっと、いけない・・・ワサビ餅の味も見てもらおうと思っていたが、うっかり忘れていたよ・・・
とは言っても、腹は一つだから無理だよなあ。それに、汁粉も食べた後だし」
 と文吉が呟くと、ジーノは真顔になって聞いた。
 「ワサービ餅って、なんですかあ?」
 「さっきおろしてもらった、オロシワサビをたっぷり入れてついた餅だよ。醤油をつけて食べ
るのさ。汁に入れても美味い」 晃が教えた。
 「私、おなかに隙間つくりまーす。お願いします、食べてみたいでーす」


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 「あれ、まだ食べられるかね・・・ハル、ワサビ餅の分だけ残して、餅を片付けてくれるか」
 「はいよ」 ハルは臼の中に餅を少し残し、他の餅を抱えると、
 「晃、おらはこの餅を奥で延すから、文さの手番やってくれな」
 と、言い残してお勝手に入っていった。
 文吉は臼に残った少量の餅にオロシワサビをたっぷりのせ、杵の先で餅にねじり込むようにし
た。晃が濡らした手で餅を折り返し、ピシャリッと叩くと、文吉が杵を軽く落とした。餅が少量
なので強く搗くことはない。しばらく繰り返すと、淡い緑色の餅ができ、文吉は晃が差し出した
お椀に、一口大に千切ったワサビ餅を数個入れた。
 「ジーノさん・・・この餅は醤油をちょっとつけたら、ゆっくり噛んで味わってくれ。風味が
後からゆっくりついてくるから」 と文吉が言った。
 ジーノは言われたままに、ゆっくり噛んで味わった。
 「あんなにワサービを入れたのに、思ったより辛味が穏やかですねえ・・・あー、確かに風味
が後から、ゆっくりと広がってきまーす・・・このワサービ餅の命は辛さより風味ですねえ」

 
 一時間ばかりの昼寝をとった後、晃とジーノは自転車で大王わさび農場へ向かった。
 その農場は、文吉の家から自転車で東に十分ほどのところにあった。
 「大きなワサービ畑ですねえ、いったいどれくらい広いのか、見当がつきませんねえ・・・こんな
ワサービ畑もあるんですかあ。それに美しいです・・・一面が美しい花でおおわれた大農場とか、


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緑や黄色の麦畑とか、これまで、色々な農場を見まーしたが、そういった農場では感じなかった
何かが、この風景にはありますねえ」
 「ここは全国一大きなワサビ園で、およそ南北に一キロ、十五ヘクタールの農場だ。このワサビ
畑の向う側は犀川なんだけど、昔、大水で川が暴れた時なんか、この辺りまで川のようになって
しまう不毛地帯だったそうだよ。それを大正時代に犀川の護岸工事も兼ねて開発して、こんな
すごい空間を造ったんだ。難事業だったらしいけどね」
 「あの数え切れない畝(うね)の間を流れている水の一本一本も、犀川の水の根の毛根なんで
すねえ・・・安曇野の人間は、自然環境を活かす天才ですねえ」
 「ここの自然環境が、そうした知恵を持つ人間を育てたともいえるかな。特にワサビは、人間が
自然を征服したような環境では育たないからね。自然に寄り添って、そのシステムの一部を使
わせてもらうのが前提で、自然をゆがめたらワサビは消えてしまうから、ワサビ農家はワサビを
作る前に、水環境を守る水守でなくちゃならないんだ」
 「水環境を守るには、山や森のことも守らなくては、ならないですねえ」
 「うん、健康な大自然があってこそ成り立つ産業だから」
 「北アルプスと扇状地が創った独特の水環境と、そこに生まれ育った水の民。その水の民が大
自然と手を合わせて造った水の国、ですね安曇野は」
 二人は大王わさび農場の散策を暫く楽しんだ後、町の中心にある穂高神社へと向かった。

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