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もちつき (1)

 西の家の東屋には、すでに木臼が据えられ、臼の中には湯が張られていた。
 文吉がテーブルの上に食器を並べているところに二人が戻ってきた。


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 「おいおい二人とも、びしょ濡れじゃあないか・・・おや、ジーノさん、そのシャツに包んだ
物は、いったい何だい?」
 「西オジ、ちょっと見てくれよ・・・ジーノさん、こっちへ持って来てくれる」
 晃は水舟の横に吊るしてあった、柄の長いタモ網を取ると池の端に行き、網を水に浸け、網の
口を上に向けて構えた。
 「ジーノさん、この中にシャツごと入れてくれるかい」
 晃がタモ網の中でシャツを解くと、体長五十センチ程もある魚が現れた。文吉は覗き込むと
 「あれ、こいつはマスじゃないぞ・・・ちょっとかしてみな」
と、受け取ったタモ網を水から引き上げた。網の中でデクデクと暴れている魚を見ると、
 「おいっ、こいつは銀ケイじゃないかっ!いいやつを捕まえたなあ・・・産卵の時期でもない
のに、今頃どうして上って来たものか・・・」 と言った。
 「やっぱり銀ケイだよね」
 「銀ケイってなんですかあ?」
 「うん、銀ケイは山女魚(やまめ)っていうサケ科の魚が、湖なんかで大きく育って、こいつみたいに
模様が消え、全身銀一色に変わったやつのことさ。正式にはサクラマスって呼ぶけど」
 「銀ケイは美味しいんですかあ?」 ジーノが小さな声で聞いた。
 「ジーノさんは、ずいぶん食いしん坊のようだね・・・銀ケイは美味いよ、特に美味い」
 目尻にシワを作った文吉が、日に焼けた顔に白い歯を見せた。
 「おっと、晃、早く着替えてもらえ、風邪引いちまうぞ。それからジーノさんには客間使って


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もらって、晃は仏間でいいな」
 「分かった」
 タモの魚を文吉に任せて二人は着替えに行った。
 魚が身をくねらせるたびに体色は、銀の中に透明な青を見せたり消したりした。

 「変わった造りの家ですねえ・・・家の外と中の境目が、よく分からない不思議な空間が多い
ですねえ」
 縁側に濡れ物を干しながらジーノが言った。
 「昔の日本の家は、こういう形態の家が多かったんだよ。今時の家は、すっかり家の内外を仕
切ってしまう家が、ほとんどだけどね。特に最近は窓を小さくして、壁を特殊な壁にした超高気
密、高断熱なんて家も出始めているしね・・・」
 「でもそれって快適なのかどうか微妙ですよね。便利になって、無駄も無くなって・・・だけ
ど、それと引き換えに大事なものも捨ててしまうような・・・私は、こういう空間が大好きです。
この変わった廊下にいると、なんだかとってもいい気持ちになりますです。物干しに使うなんて
勿体無いくらいでーす」
 「この変わった廊下は縁側っていうんだけど、この家は表にも裏にも縁側があるよ」
 「エンガワ・・・ですかあ?」
 「そう、縁側の縁はフチとも読むから、家のフチで縁側なんだろうけど、他に縁には・・・俺
とジーノさんが築地で知り合ったという縁、それがきっかけでジーノさんが今、安曇野にいると


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いう縁、その縁で今日、四人の人間が、いつもと違う時間を楽しめるという縁、といった意味も
あるよ。そして縁側の側は・・・何かのそば、近くといった意味だな」
 「解かったっ・・・縁の近くだから縁側だ。人との縁でしょ、風との縁、太陽との縁、小鳥や
花との縁、色々なものとの縁の近くなんだ・・・贅沢だなあ、日本人の感性は」
 「早いねえ。その縁の中でも特に大切な、人との縁だけど、この縁側ってやつは、ちょっとし
た用事で寄った人に腰掛けてもらったり、一緒にお茶を飲んだり、といった人との縁で、とても
使い心地がいいものなんだよ」
 「この縁側なんか一見無駄に見えながら、本当はこの家の中心ですよね。家族や縁ある人達との
心の中心ですよね。私は未来の世界に役立つものを考える時、こうした日本人の感性や文化が、
宝の山のように思えてしかたありませんねえ」
 「でも、一昔前の家には当たり前だった縁側だけど、今時の家で縁側のある家なんて、見付け
るのが大変なくらい希少な存在だよ」
 「不思議ですねえ・・・こうした空間で過ごす時間や、こうした空間での縁というのは、とて
も大切な暮らしの味わいですねえ・・・暮らしのゆとり、潤いですねえ。こんな世界に誇れるよ
うな感性や文化を持っていたーのに、日本人はなぜ簡単に手放したのか、何と引き換えに手放し
たのか・・・人との縁、自然との縁を無駄なものとして捨てても、しばらくは普通に生きていら
れるかも知れない。でも、そんな暮らしを続けていたら・・・その先に何かとても怖い未来が見
えるような気がします。便利や速さのために、自分との関係まで見失ってしまうかも知れない」
 「自分との関係までか・・・」


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 久し振りに味わった水や魚の感触、この感受性に富んだ異邦人の反応や刺激、実りの香りに満
ちた秋の故郷、晃の血液の中に溶け込んでいる安曇野の記憶を、様々なものが呼び覚まそうとし
ていた。晃には今回の帰郷に何か大きな縁が働いているように思えた。
 「おーいっ、そろそろ、もち米が蒸けるぞーっ」
 東屋の方から文吉の呼ぶ声がした。

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