わさび畑 (4)
「あの先の築山の向こうにある畑まで行ってから、引き返そうか」
「魚を獲るんですかあ?」
「うん、きっと獲れると思うよ」
「どんな魚が獲れるんですかあ?」
「マスやカジカはきっと獲れるけど・・・まあ、やってみてのお楽しみさ」
「・・・・・」
二人は再び水路沿いの狭い土手道を下流に向かった。次の築山と右手の土手の間を抜けると再
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び視界が開けた。その瞬間に二人の直ぐ左脇から瑠璃色の美しい鳥が飛び立ち、低く一直線に下
流に向かって飛び去っていった。
「カワセミだよ・・・食事の邪魔をしたみたいだな」
「カワセミなら知っていまーす。きれいな鳥ですよねえ!」
「そこで小魚を狙っていたんだな」
ジーノの網膜にヒスイ色の鮮やかな直線の残像が残った。
「と、いうことは・・・ここには魚がいるんですねえ・・・あれ??でもここのワサービは、
ずいぶん様子が違いますねえ?」
「ここのはワサビじゃなくてクレソンと雑草ばかりさ。実は、ここが家のワサビ畑なんだけど、
ずっとほったらかしにしてるから、こんな状態になってしまったのさ」
その畑は周囲を固めた石垣など、ワサビ畑の面影を残してはいるものの、畑そのものは、すっ
かり水草におおわれて、畝も見えない状態だ。
「もうこの畑では、ワサービは作れないんですかあ?」
「いや、手をかければ作れないことはないけど・・・ワサビ栽培って、ものすごく手が掛かる
んだよ。それに、俺は一人っ子だから他にここをやる者はいないし」
「・・・泉さんは、もう、安曇野に戻るつもりはないんですかあ?」
「・・・・・」
「すいません、余計なこと聞いちゃって・・・」
「いいんだよ・・・だけど、この程度のワサビ畑で家族四人やっていくって大変なんだよ。小
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売店もやっているワサビ農家ならともかく、栽培だけではね。それより早く魚獲りを始めようか。
もう直ぐ昼になっちゃうし」
「どうやって獲るんですかあ?」
「ジーノさんも水に入ってみるかい?」
「もちろんでーす」
「じゃ、俺のやるのと同じようにして」
言うと晃は靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾を何度も折り返して、膝小僧の上まで上げてしまった。
ジーノも同様にした。
「よし、漁場は畑の右端しだ。あの水草の間から、ずーっと帯状に水ののぞいている部分は他
より一段深いんだよ。あそこの魚を驚かせると、クレソンや金魚草の下に潜り込んで、へばりつ
いてしまうから、それを手で捕まえるんだ」
「何となく、分かりまーした」
「じゃあ、俺は隣りの水路の中を下って、下流に回り込む。そしてこの土手を乗り越えて、下
に立ったら合図するからね。そうしたら、思い切り派手に水音を立てて下ってくるんだよ。俺は
逆に上ってくるから」
魚籠を腰に付けた晃は右隣りの水路に入り、川下へと下っていった。
待機しようと一歩水に踏み込んだジーノの足先から、驚きと痛みと快感を混ぜたような冷水の
清冽な刺激が、一気に脳天まで走った。
晃は七十メートル程下流で土手を乗り越えると、手を上げるのと同時に大声を掛けた。
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「いくぞーっ」
二人はガニ股で、ザバンッザバンッと水飛沫を派手に上げて一気に走った。
「お疲れさーん・・・さて、ジーノさんは初めてだから一緒に下流から攻めた方がいいと思う
けど、どうせだから驚かせながら行こうか」
二人は晃のスタートした地点まで揃って走り下った。
「はいーっ、こんなもんで充分でしょう・・・じゃあ、見本を見せるから、ジーノさんも捕ま
えてくださいよ」
腕まくりした晃は腰をかがめ、両肘まで水に差し込んで探り始めた。