わさび畑 (3)
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「晃ーっ、えらい早かったじゃねえかーっ」
振り返ると築山の上に叔父の文吉(ぶんきち)が立っていた。なにやら重そうな物を抱えている。
「やあっ、西オジッ、また厄介になるよーっ」
文吉の抱えていたのは、バスケットボールほどもある石だ。大柄ではないが、引き締まった身
体、日に焼けた顔や両の腕が、すっかり白くなった短髪の頭や白いTシャツと良く似合っている。
ひたりひたりと足裏が地面に吸いつくような身のこなしで下りて来た文吉は、二人の足元に灰色
の大きな石を、ドシャリッと置いた。石はまるで碁石の様に形良くつぶれ、滑らかな肌をしている。
「にいさんが、イタリアのにいさんかい。こんな遠くまで、よくおいでなさったねえ」
「はい、イタリアから来ましたジーノと申します。どうぞ、よろしくお願いしまーす。私、ワ
サービに会いたくて、やって来まーした」
「おーっ、日本語上手だねえ!。俺はイタリア語はちょっと苦手なもんだから、何だかほっと
したなあ・・・よかったよかった。俺は晃の叔父で泉文吉っていう百姓です」
「イタリア語どころか日本語だって危なっかしいくせに・・・」 晃が茶々を入れた。
「えーと・・・ジーノさんは、あの、なにかい・・・えーと、ワサービバターケ見るーのは、
初めーてかい?」
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「西オジ、普通に話せよ・・・よけいに解かりにくくなっちゃうから」
「はい、ワサービ畑、初めてですねえ」
「ジーノさんが、ワサビ畑は畑っていうより庭園みたいだってさ」
「庭園かい・・・嬉しいねえ。そうだ、今夜使うワサビを抜いておこうか」
言うと、文吉は畑に入った。畝間を流れる水は浅く長靴のかかとが沈む程度だ。文吉はこんも
りと茂った一株のワサビの根元に両手をかけると、先ず周囲のジャリを緩めるため、前後左右に
ユサリユサリとやってから、慎重にゆっくり抜き上げた。
その株を抱えて来た文吉は、二人の足元の水路で根についた小砂利や砂をジャブジャブと振り
洗いすると、差し出した。
「はい、ジーノさん。これがワサビの全身だ」
「えーっ!!これがワサービですかあ。この間、築地で見たのとぜんぜん違いますねえ?どー
して違うんですかあ?」
ジーノの前に始めて全貌を現したワサビ一株は、思いの他大きくゴツイ代物だった。四十セン
チから五十センチ程にも伸びた葉茎が数十本も密集し、その下の根ときたら、使い古した竹ぼう
きを数本も束ねた様な、ぼさぼさっとした姿だ。良く見ると無数の根の間にワサビのイモらしき
ものが、幾つか閉じ込められているのが確認できる。
「市場に出すためにはイモをこの株の中から外して、きれいに繕(つくろ)ってやるんだ。後でやって
見せてあげるよ」
「ありがとうございまーす、お願いしまーす」
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「西オジ、そこの魚篭(びく)借りていいかなあ?ちょっと下の畑まで行って来るから」
「いいよ、魚でも獲ってくるのか?・・・じゃあ俺は、この石とワサビを持って一足先に帰っ
ているからな」
「漬物石かい?」
「そうだ漬物石だ、なかなかいい形だと思わないか。ところで何時ごろに帰って来るんだい?、
先に餅米蒸かしておくから」
「十二時までには戻るよ。ちょっと遊んで来るだけだから」
「分かった。じゃ、ジーノさん、魚いっぱい獲ってきてくださいよ」
文吉は、一輪車にコモを敷き、大石と一株のワサビを載せて水路の間の土手道を押して行った。