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わさび畑 (2)

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 水路の向こうは、アカシアやクルミなどの雑木におおわれた、高さ数メートルの小山が左右に
続き、視界をさえぎっている。
 「この低い山は築山(つきやま)って呼ぶんだけど、昔、ワサビ畑を開墾するために地面を掘り下げ
た時の捨て土砂を積み上げたものなんだ。だからワサビ畑の近くには、こういった築山がセットで
存在してるんだよ」
 「ワサービ畑を造るためには、地面を掘り下げないといけないんですかあ?」
 「うん、この辺りは地表の一メートルから二メートルくらい下を地下水が流れているからね。
掘らないところには水田や家がある。安曇野のワサビ畑は全部そうやって開墾されたんだ」
 晃は手前の水路に掛かった板橋を渡ると、二本の水路に挟まれた土手の上を右手の川下へと
向かった。巾一メートル程の土手上は頻繁に人が行き来するらしく、草の生えているのは端だけで、
中央は乾いた土がむき出しになっている。
 両脇を行く水はキラキラと秋の陽を弾きながら、二人の歩調と同じくらいの流速で流れている。
水中ではバイカモの緑の房がゆったりと揺れ、二人の気配に驚いたマス達が、バイカモの下に隠
れたり、下流に走ったりしているがジーノは気付いていない。
 間もなく左手の築山が切れ、視界が開けるのと同時に二人はワサビ畑の中に立っていた。


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 晃が振り返って言った。
 「ご注文のワサビ畑ですが」
 「これが!!ワサービ畑ですかあ・・・」
 緑と水の帯の連続が、シンメトリーな美しい幾何学模様を描いている。
 「・・・まさに水舟ですねえ・・・これは、畑というより庭園でーす」
 ジーノは大気を胸いっぱいに吸い込むと、ゆっくりと味わいながらはき出した。
 左手の水路に板橋が掛かっていて、その先の築山の下には小さな道具小屋があった。
 足元から、刈り立ての草の薫りが立ち昇っている。
 小屋の中に草刈機が置いてあるが、辺りに叔父の姿は無い。
 「このワサービ畑は、どれ位の広さですかあ?」
 「およそだけど横幅が二十メートル、下流に向かって百メートルってところかな。約二十アー
ルって聞いたけど、この畑はこの辺りでは中くらいの大きで、驚くほど広い畑もあれば、家庭菜
園みたいに小さいのもあるよ」
 「水がこんなに沢山流れてて、よく涸(か)れませんねえ。水は流しっぱなし、なんですかあ?」
 「そう、流しっぱなし。見て、どこの畝(うね)の間も水の流れていないところは一ヶ所もないから。
ワサビの根には常に新鮮な水が通っていないと生育障害を起こすんだよ。しかも、水質や水温に
も神経質で、水質は有機物や鉱物質の少ない中性。水温は年間を通じて九℃から十六℃の間で
ないと駄目なんだ」
 「ほんとに贅沢な植物ですね。まあ、香辛料はどれも我がままって聞いたけど、ワサービは極


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めつけの我がままでーす。そんな条件の揃うところなんて、日本中探しても少ないでしょう・・・
世界中探しても少ないですよねえ」
 「他にもあるけど、他は山間部ばかりで栽培条件はもっと厳しいね。研究者の話では、平地に
これだけの規模で条件が揃ったこと自体が奇跡なんだってさ。安曇野湧水群の湧水総量は、一日
約七十万トン位いらしいけど、それが毎日流れ続けて、よく水切れにならないって感心するよ」
 「毎日七十万トン・・・大きな水舟ですねえ・・・」
 セグロセキレイが二羽やって来て、畑の中で追いかけっこを始めた。
 「畑の中の模様がきれいですねえ・・・このデザインには何か意味があるんですかあ?」
 「うん、この辺りのワサビ畑は、ほとんどこの形の畝立(うねだ)てをするけど、これは何十年もの
間に、色々試して工夫して辿り着いた形で、ここの風土に最も合った形なんだ。木の葉の葉脈とか
鳥の羽の模様に似てると思わない?」
 「ああ、似てますねえ」
 「木の葉に例えるなら、畑の中央を縦にずっと貫いている太目の水が主脈。その主脈に向かっ
て、支脈にあたる左右の細い流れが数十本と交わっている」
 「解かりまーす。畑一枚が一枚の葉っぱみたいに見えますねえ」
 「水の支脈と支脈の間を仕切っている部分を畝(うね)っていうんだ。畝は小砂利を盛り上げたもの
で、ワサビは畝の両脇に植えてあって、茎や葉っぱは地上に出ているけど、芋や根は砂利の中で
水に浸かっている」
 「畝の高さと横幅はどの位ですかあ?」


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 「今は葉っぱで隠れていて良く見えていないけど、ここのは高さ約二十センチくらい。ただ、畝の
高さは各農家ごとに微妙に違うな。畝の幅は約四十センチで、間を流れる水の幅も約四十センチ。
これも栽培者によって微妙に違う」
 「右の土手は低いのに、左の土手は、どうしてあんなに高いのですかあ?」
 このワサビ畑を下流に向かって眺めると、右手の土手の高さは二メートル程度だが、それに比
べ、左手には、高さ十メートル程もありそうな土手が、ずっと下流まで続き、そこより左手の一
切の視界をさえぎっている。
 「ああ、左手の高い土手は穂高川の堤防だよ。あの土手の裏側には穂高川が流れているんだ。
要するに、この辺り一帯のワサビ畑は穂高川右岸に沿って並んでいて、安曇野ワサビ田湧水群の
中でも、穂高川ワサビ園って呼ばれてるエリアなんだ。あの先の築山の下流にも、それから、後
の築山の上流にも、こうしたワサビ畑が幾つもあるんだよ」
 「ワサービ畑は隠れているんですねえ。それで車から見えなかったんですねえ。ワサービは収穫
できるまでに、何ヶ月くらいかかるんですかあ?」
 「小さな種芋を植え付けてから、およそ一年から二年で収穫できるかな」
 「そんなに、かかるんですかあ・・・」
 「この畑のは一年と八ヶ月くらいで収穫する」
 二羽のセグロセキレイが、何かの気配を察して警戒した。

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