早苗の秘密(4)
「そうだ、これをあげるよ。田舎で作った様にはいかなかったが、なかなか良く育ってくれた
から、食べてやってくれるかい」
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老人は腰の篭から二個の完熟したトマトを取り出した。
「わあ、ありがとうございます」
二人の手に載った真っ赤なトマトは、見かけの大きさよりズシリと重いトマトだった。
「私は今年の春入社したばかりで、五階の広報にいる漆山洋子です。それからこの子は泉早苗、
私の妹みたいな友人です」
「私は南雲という元百姓です。今はパートの百姓かな。それにしてもあんた、毎日来てないか
ね、この屋上庭園に?」 南雲が聞いた。
「はい、ほとんど毎日来てます。私、ここが大好きなんですよ。」
「そうかい、そりゃ嬉しいねえ。私等も働き甲斐があるってもんだ」
「南雲さんは、この屋上庭園を企画したのがどなたかご存知ですか?」 洋子が聞いた。
「もちろん知っているよ。前の環境整備課長の内藤さんだよ。その内藤さんが色々な専門家を
訪ねて、猛勉強して企画したってことだ。私もその内藤さんに誘われて、二年前からお手伝いを
始めたんだが・・・」
「前のっていうと、その内藤さん、今はどちらの部署にいらっしゃるんですか?」
「それが内藤さんは、この春に突然会社辞めるって言い出して、五月いっぱいで退社しちゃっ
たんだよ」
「えっ、辞められたんですか・・・屋上庭園の中でも評価が高くて、視察なんか毎日のように
入ってるし、プロジェクトとしては大成功ですよね。なぜ辞められたんです?残念だなあ、そ
の方にお会いしてみたかったのに」
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「私も急な話で驚いたよ。私なんかが来るよりずっと前から苦労を積み重ねて、ようやく形に
なり軌道に乗った途端だものね。この春・・・そうだ、ちょうどあの池の桜が満開の時さ。内
藤さんとあのベンチで一服してたんだ。それまで辞めるなんて素振りも見せなかったのに、茫
っと桜を見上げていたかと思ったら、突然言い出したんだよ。『俺が本当にやりたかったのは、
こんな仕事じゃない。やっぱり国に帰ることにするよ』ってね。和歌山の実家に帰って農業や
ってるけど・・・帰る田舎のある人はいいよね」
早苗は二人の会話を聞きながら、屋上庭園を改めて見渡していた。
「私は奥のキュウリの世話が、まだたっぷり残っているから失礼するが、また野菜の顔でも見
においで」
老人は再び笑いジワを見せると、小さな背中を丸めて遠ざかっていった。
早苗はその背中を見ながら、きっと笑いが耐えなかったであろう、三年前までの老人の暮らし
を想像していた。
洋子は職場のある五階でエレベーターを降りた。周囲の同乗者に気遣い、お互いに右手を胸の
前で小さく振っての別れに、扉があっけなく幕を引いた。
その後も二人は度々電話を掛け合ったが、洋子が暇を作れず、会う機会には恵まれなかった。
そして数ヶ月が経った今春三月末の夜、早苗の携帯が鳴った。
「さっちゃん、明日の日曜、私とデートしない?美味しいお昼ご馳走してあげるけど・・・」
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「洋子さん、ごめん、明日はバイトの予定入れちゃったからダメなんですよ・・・そうなの、
ごめんなさいね・・・ええ、来週か再来週のシフトなら変えてもらえるんだけど・・・」
「そうか・・・うん、ごめんね、急に誘っちゃって・・・そんな、気にしないでよ、お互い都
合があるんだから・・・うん、また電話するよ・・・さっちゃん」
「えっ、なあに?」
「・・・頑張るんだよ」
それが早苗の聞いた洋子の最後の声だった。