FOTOFARM信州

早苗の秘密(2)

                                                           13
 「食べるの、すごく速い人ばかりなんですね」
 前のテーブルで、額の汗を拭いながら、猛烈な勢いでカレーライスをかき込んでいる中年男を
上目遣いに見ながら、早苗が小声で言った。
 「ここの女性の間では、社内恋愛するなら早飯早・・・もう、食事済んだからいいか、早飯早何
とかの男としろって言われているんだよ」 洋子も小声で答えた。
 「どうしてですか?」
 「出世する男の特徴なんだって」
 「そうなんだあ・・・」
 早苗は改めてカレーライスの男を盗み見た。男は残飯をゴミ箱にでも捨てるような勢いで食べ
切ると、グラスの水を一気に飲み干して立ち上がった。立ち去る男の額には再び大粒の汗が噴
き出していた。
 「あの人がご飯を味わって食べられるのは、夕食だけですね」
 「夕食だってどうかな・・・帰宅する頃には家族の夕食はとっくに済んでるし、早く食べてし
まわないと、奥さんだって片付けが済まないでしょ。お酒の付き合いがある日なんか、帰宅し
たら深夜だから、直ぐに布団に潜り込まないと、眠る時間まで無くなっちゃう。ま、休日にの
んびりするとして、平日は仕事が全てね」


                                                           14
 「・・・・・」
 「とは言っても、こういう会社になると社員の健康にも配慮してくれて、食堂で使う食材は全
て国内産しか使わないし、選べるメニューも多いんだよ。それにねえ・・・いいところへ連れ
て行ってあげるよ」
 洋子は早苗をエレベーターに乗せると、三十三階建てビルの屋上に連れて行った。

 「屋上は緑化公園になっていたんですね・・・」
 「どう、驚いた。最近話題になり始めているとはいっても、ここまでやってくれる会社は少な
いよ。ここで三十分の憩いを手に入れるためなら、私だって早飯する気になるの、解かるでしょ」
 「ええ・・・」
 「あの展望台に登ってみようか。屋上庭園の全貌が見渡せるから」
 螺旋(らせん)階段を登り詰めた展望台からは、屋上庭園を十メートルほどの高所から俯瞰すること
が出来た。屋上庭園には樹木や草花が植栽されているばかりか、水田や畑や池まであり、水田は
すっかり成長した緑の稲におおわれていた。
 「見て。周りは無機質なビルばかりがひしめいているのに、ここだけはオアシスのように見え
るでしょ。ノアの箱舟って言った人もいたな。ほら、あの田んぼに植えられているのは餅(もち)米(ごめ)
なんだけど、社員の家族で作った倶楽部があって、田植えや稲刈りに参加出来るんだよ。それに、
秋には収穫した米で、もち搗(つ)きもするんだってさ。それから、あの池には実際に魚や水生昆虫
なんかも棲んでいるんだよ。近づいて見れば分かるけど、ドジョウやフナやカエルまで放してあ


                                                           15
って、トンボやチョウが舞ってたり、小鳥が来てる時もあるんだ。すごいでしょ」
 「すごい・・・」
 早苗の思わず発した『すごい』は、その莫大な費用を掛けたであろう緑の空間を、ひしめくビ
ル群の中に造り出してまで、人工的な環境に適応しようとする人間の、逞しさに驚いての『すご
い』だった。

«早苗の秘密(1) 早苗の秘密(3)»

当サイトすべてのコンテンツの無断使用を禁じます。
Copyright (C) FOTOFARM信州