早苗の秘密(2)
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「食べるの、すごく速い人ばかりなんですね」
前のテーブルで、額の汗を拭いながら、猛烈な勢いでカレーライスをかき込んでいる中年男を
上目遣いに見ながら、早苗が小声で言った。
「ここの女性の間では、社内恋愛するなら早飯早・・・もう、食事済んだからいいか、早飯早何
とかの男としろって言われているんだよ」 洋子も小声で答えた。
「どうしてですか?」
「出世する男の特徴なんだって」
「そうなんだあ・・・」
早苗は改めてカレーライスの男を盗み見た。男は残飯をゴミ箱にでも捨てるような勢いで食べ
切ると、グラスの水を一気に飲み干して立ち上がった。立ち去る男の額には再び大粒の汗が噴
き出していた。
「あの人がご飯を味わって食べられるのは、夕食だけですね」
「夕食だってどうかな・・・帰宅する頃には家族の夕食はとっくに済んでるし、早く食べてし
まわないと、奥さんだって片付けが済まないでしょ。お酒の付き合いがある日なんか、帰宅し
たら深夜だから、直ぐに布団に潜り込まないと、眠る時間まで無くなっちゃう。ま、休日にの
んびりするとして、平日は仕事が全てね」
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「・・・・・」
「とは言っても、こういう会社になると社員の健康にも配慮してくれて、食堂で使う食材は全
て国内産しか使わないし、選べるメニューも多いんだよ。それにねえ・・・いいところへ連れ
て行ってあげるよ」
洋子は早苗をエレベーターに乗せると、三十三階建てビルの屋上に連れて行った。
「屋上は緑化公園になっていたんですね・・・」
「どう、驚いた。最近話題になり始めているとはいっても、ここまでやってくれる会社は少な
いよ。ここで三十分の憩いを手に入れるためなら、私だって早飯する気になるの、解かるでしょ」
「ええ・・・」
「あの展望台に登ってみようか。屋上庭園の全貌が見渡せるから」
螺旋(らせん)階段を登り詰めた展望台からは、屋上庭園を十メートルほどの高所から俯瞰すること
が出来た。屋上庭園には樹木や草花が植栽されているばかりか、水田や畑や池まであり、水田は
すっかり成長した緑の稲におおわれていた。
「見て。周りは無機質なビルばかりがひしめいているのに、ここだけはオアシスのように見え
るでしょ。ノアの箱舟って言った人もいたな。ほら、あの田んぼに植えられているのは餅(もち)米(ごめ)
なんだけど、社員の家族で作った倶楽部があって、田植えや稲刈りに参加出来るんだよ。それに、
秋には収穫した米で、もち搗(つ)きもするんだってさ。それから、あの池には実際に魚や水生昆虫
なんかも棲んでいるんだよ。近づいて見れば分かるけど、ドジョウやフナやカエルまで放してあ
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って、トンボやチョウが舞ってたり、小鳥が来てる時もあるんだ。すごいでしょ」
「すごい・・・」
早苗の思わず発した『すごい』は、その莫大な費用を掛けたであろう緑の空間を、ひしめくビ
ル群の中に造り出してまで、人工的な環境に適応しようとする人間の、逞しさに驚いての『すご
い』だった。