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水の家族 (3)

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 「ワサビから地球の未来を語る、か・・・でも、ここに立つと確かにそういう目線になるよね。
今回のジーノさんの企画、何となく良い結果出そうな予感がするなあ・・・ここからでは全部の川を
確認出来ないけど、帰ってから、ここの水路図を見せてあげるよ、絶対に驚くと思うな。あの大きな
川の間に、中くらいのや細いのや、それからワサビ畑や養魚場からの水、さらに、縦横に張り巡ら
された農業用水路もあるし・・・そうそう俺の親父は、巨木の根っ子の様なもんだって言ってたなー、
そして、犀川がその巨木だって」
 「巨木と根っ子かあ・・・その水路図を見てみたいですねえ」
 「俺が子供のころ、丁度この場所で、そんな話しをしていたよ。俺が・・・じゃあ、大男が現れて、
その木を抜いてどこかに行っちゃったら、大騒ぎになっちゃうね。根っ子の先に、ダムや湖や温泉や、
田んぼやワサビ畑や水道なんかも、全部くっついて行っちゃうねって言ったら・・・」

 晃の目前には三十年近く前の夕刻、この場所に立つ父親源(げん)吉(きち)と十一歳の自分がいた。
春の陽はすっかりアルプスに傾き、鋭い逆光線が安曇野の水の季節を浮かび上がらせ始めていた。
 カメラを載せた三脚を並べ、二人はシャッターチャンスを待っていた。
 水の張られた無数の水田は水鏡と化して輝き、梓川が左から、高瀬川が右手から、水の平野に
大きく身をくねらせてやって来る。そこへ同じく身をくねらせ、平野を正面から横切って来た穂
高川が割り込み、まるで三匹の銀竜の様だ。平野も川も全てが銀色に輝いていた。


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 晃の返答に振り向いた源吉は、嬉しそうな顔で晃を抱えあげると、「そうかそうか、お前の目
には、そんな物語が見えたのか、いいねえ、面白いねえ」と言いながら、無精ひげの生えた頬を、
晃の頬にゴシゴシとこすりつけた。晃は痛いのと、照れ臭いのに堪らず、のけぞった。

 「泉さん・・・どうしました?」
 「えっ、ああ・・・って言ったら・・・面白がってくれたよ。面白いっていえば、昔、この安曇野を開拓し
たのは海の民、海洋民族だったんだよ。千数百年も昔の大昔のことだけど、北九州からやって来た
海人族の安曇族が、ここを開拓したんだ」
 「山国を海の民が開拓したんですかあ?」
 「うん、安曇族の氏神は穂高見神(ほたかみのかみ)で、その父神が綿津見神(わたつみのかみ)。
この綿津見神は海神で水を自在に操る神様なんだ。この神様たちを祀ってある神社が、ほらあそこ、
平野の真ん中、町の中に神社の森がある・・・そうそう、あそこの森が安曇野の鎮守の杜で穂高神
社だ。それから、あの穂高神社が里宮で、奥宮は上高地の明神池の畔にある。そして、嶺宮は北
アルプスの主峰、奥穂高岳(おくほたかだけ)の山頂にあるんだよ」
 「この盆地と山との関係が、うかがえますねえ・・・」
 「一心同体といってもいいかな・・・穂高神社は安曇野だけじゃなくて、アルプスの鎮守の社でも
あるんだけど、逆にアルプスは風雪からこの盆地を守ってくれたり、新鮮な水や大気や自然の恵み
を与えてくれる、切っても切れない関係さ」
 「山とこの盆地は一心同体ですかあ」


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 「そうそう、川も忘れちゃいけない。川もこの盆地にとっては山と同じくらい大切な関係だ。一つの
身体だとすると血液に当たるかな。親父の口癖だけど『世間はここのことを山国としか言わないが、
安曇野は水の国なんだ』って何度も聞かされたなあ。それから『この水の国は、人間が自然と一緒
に造った芸術だ』って。確かに五月のここに立ったら分かる気がするけどね。五月になると夕方には、
しょっちゅうここに連れて来られたもんさ。お下がりのカメラを持って、親父の撮影に張り付いて来た
んだけど、水の国が姿を現すんだ。ただし、晴れている日の午後三時過ぎから日没まで、っていう
限定品だけどね。田んぼには水が張られて、川は水かさを増しているから、夕日を受けて平野一面
が水の鏡みたいに輝くんだよ」
 「水の国かー・・・見てみたいなあ」
 「写真でよければ、後で見られるよ」
 「そーかっ!写真があるんですよねえ、楽しみですねえ・・・その写真、今回のワサビの仕事に
使わしていただくこと出来ますよねえ?」
 「もちろん。選ぶのに困るほど沢山あるよ」
 「いいページになりそうですねえ・・・写真もですが、お父さんに会うのも楽しみですねえ」
 「・・・いや、親父はもういないんだよ。うちはもう、ずっと前に両親亡くしちゃったもんだ
から・・・」
 「おうっ、すいませーん。知らないもんだから・・・」
 「おいおい、気にしないでくれよ。その代わり、やたら元気な両親がいるから」
 「???」


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 「親父の弟夫婦さ、実の両親より馬が合っているよ。そうだ、あそこの所、覚えておいて。これ
から行く所が見えているから。先ず犀川橋を向こうに渡る。そして、その先に、ずっと向こうから
来ているのが高瀬川だ。橋が掛かっているよね、あれを左に渡る。渡るとまた直ぐに違う川が
正面からきてるよね、あれは穂(ほ)高川(たかがわ)だ。あれも渡って、その向こうの水田地帯、
稲で黄色に見えるだろ、あそこの穂高川に近いところが次の目的地、俺の生まれたところ」
 「あそこなんですかあっ!」
 ピュイーヒュルルー・・・下の方から二羽のトビが、弧を描きながら上昇気流に乗って高度を
上げてきた。秋の陽光を浴びた翼が、大気をめいっぱい捉えようと、小刻みに角度を変えている。
トビは二人より高いところまで舞い上がり、二人を一瞥(いちべつ)すると、羽を縮めて一気に犀川橋
の方へ滑降して行った。
 「遠目には田んぼが目立つけど、あの辺りは全国一のワサビの生産地で、ワサビ畑も沢山ある
んだよ。さて、お目当てのワサビに会いに行こうか」
 ジーノの口笛が、抜けに抜けた秋の空へ、吸い込まれていった。

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