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水の家族 (2)

 「到着だよ」
 「ここですかあ?さっきより、景色、良くないですねえ」
 「まあいいから、ついて来て」
 「・・・・・」
 半信半疑のジーノを車から降ろすと、晃は斜面に刻まれた坂道をさっさと登り始めた。
 「わかったっ!この上に見晴らし台があるんですねっ」
 「この直ぐ上が、長峰山の頂上だよ」
 勢いづいたジーノが後を追う。一歩ごとに空が降りてくる。目線が丘のような山頂を超えるよ


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うになると、その先に北アルプスの連山が、せり上がってきた。
 「ジーノさん、口笛は?」
 「・・・すごーいよ・・・」
 さらに二人が進むと眼下に平野が現れた。信州の米どころ安曇平だ。収穫を間近にした稲で黄
色に染まった平野に、ちりばめられた家々と大きく蛇行する川。その背後には、まるで津波のよ
うな北アルプスが、超ワイドスケールで視界の左右いっぱいに連なっている。
 下の方からゆったりと吹き上げてきた大気が、心地良く通り過ぎてゆく。
 「ジーノさん、腕をいっぱいに広げてみて」
 「??こう、ですかあ?」
 「うん、今、その腕に抱えているのが、俺の故郷、安曇野さ」
 「おーっ、これが泉さんの故郷全部ですねーっ。泉さんは山の国の人なんですねー。ここはず
いぶん高いですが、えー、どの位の高さですかあ?」
 「標高九百三十三メートルだ。ジーノさん、あの橋のところ見て」
 晃が直ぐ眼下を指差した。
 「そうそう、あの川が全部交わってる所・・・橋のある。あの辺りが標高五百二十メートルく
らいだから・・・こことの高低差はおよそ四百メートルかな」
 超ワイドの風景の中で道路や畦道を移動する米粒の様な車。野の所々に立ち昇る糸くずの様な
白煙。そうした秋の営みの音が、上昇気流に乗って四百メートルの高度差を昇ってくる。直ぐ麓
の集落からは犬の鳴き声さえ混じる。一際目立つ音で加わったのは篠ノ井線を行く下り列車で、


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銀色の地味な車体をマッチ棒程度に連ね、眼下左手から現れると、水田や民家の間をゆっくり滑
って、右手の長野方面へと去っていった。
 晃は平野の向こうに目を転じて、正面やや左手の山を指差した。
 「ほら、あのピラミッド型の山が安曇野のシンボル常念岳(じょうねんだけ)さ。そこから少し右手
の富士型の山、あれも安曇野のシンボルで有明山(ありあけざん)だ。他のピークも全て名のある
山ばかりだけど、一気に右手の端の方に飛んで、三つ連続しているピーク・・・そうそう、あれが
白馬三山(はくばさんざん)だ。それから、あの山脈の後にも山が沢山あってね、全部まとめて北ア
ルプスって呼ばれているんだよ」
 「日本の屋根、ですねー」
 「水の故郷さ」
 「ワサビの故郷・・・早く登ってみたいですね」 
 「登るって言っても谷の奥へ行くんだけどね」
 「どの谷ですかあ?ここから見えますかあ?」
 「まだ決めてないんだよ。ワサビの生えている沢は幾つかあるからね」
 ジーノは明日に想像をめぐらせ、アルプスに刻まれた谷の一つ一つを丹念に眺めた。
 アルプスのあちらこちらの谷からは、平野に向かって幾筋もの川が流れ出していた。あるもの
は正面から、あるものは右手から、水田や街の間を蛇行してこちらに近づき、全てが直ぐ足下で
一つに交わっている。
 「ここには川が沢山ありますが、さっきの橋のところで、一つにまとまってしまうんですねえ」
 ジーノが足下に見える先刻の橋を指差した。


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 「ああ、犀川橋だね。この盆地で一番低い所だから、この盆地中の水が集まってしまうんだよ。
そこまでは、それぞれに名前を持っている川だけど、あそこで一つになってからは犀川(さいがわ)
だ。犀川橋が全部の川を紡いでる様に見えるだろ。橋を右にくぐった先は、山の間を数十キロ
蛇行して長野市まで下り千曲川と合流、そして、日本海まで下って行くんだ」
 「ボンチ・・・って何ですか?」
 「料理なんかを載せて運ぶ道具で、板にぐるりと縁を付けたものなんだけど「盆」という道具
があるんだよ。だから同じような形状の土地を盆地って呼ぶんだ。ほら、平野の周りを山が取り
囲んでいるの分かるかい」
 晃は両腕を広げ、大げさに持ち上げるようなしぐさをした。
 「あー、分かりまーした。盆地はイタリアにも沢山ありますですね」
 「日本の中の長野県、その中の松本盆地」
 晃が左右に広げた手を、徐々に狭めるような仕草で説明した。
 「日本には三大アルプスって呼ばれる、大きな三つの山脈があるんだ。北アルプス、中央アル
プス、南アルプスって呼ばれてるけど、長野県には、その三大アルプスが三つとも乗っかってい
るし、その他の部分も、数え切れないほど沢山の山でおおわれている。その山ばかりのジュウタ
ンを、スコップで一部分ガリッと剥ぎ取った様なのが、この盆地なんだ」
 「こーんなに広いのに、一部分、なんですかーっ?」
 「長野県はとても大きな県だからね。上空から見たら分かるけど、山ばかりでギッシリと覆われ
た県だよ」


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 「泉さん、雪がぜんぜーん見えませんが、雪はいつごろ降るんですかあ?」
 「・・・アルプスの初雪は来月、十月の上旬から中旬くらいになると降るかな。初めは高い部
分だけだけど」
 「あーっ、もう直ぐですねえ。残念でーす、見たかったでーす。冬には真っ白になるんでしょ
うねえ。あの山が白くなったら、最高ですねえ、私、絶対に見たいでーす」
 「・・・・・」
 晃はずっと左手の方を指差して続けた。
 「向こうが南で、今、我々は向こうからやって来たんだ。向こうには松本市と、そのさらに先
に塩尻市がある。それから反対の、こっち向いてみて、右の方、こちらが北で、平野の最も先の
方が大町市だ。平野は塩尻市の南部から、あの大町市の北部まで、およそ五〇キロもあるんだよ。
だから、南北にはとても長い。逆に東西には短くて、一番距離のある松本の辺りでも十キロくら
いだから、かなり横長の盆だね」
 ジーノはポケットノートを取り出し、しきりにメモっている。
 晃は父親の受け売りデータが、いまだにそのまま自分の中に残っていたことに、やや戸惑いな
がらも先を続けた。
 「この盆地の中には沢山の市町村があるけど、昔から、この地域の政治や経済の中心だった松
本の名前をつけて、松本盆地って呼んでるんだ」
 「マツモトボンチ、ですね・・・松本と安曇野に、何か境はあるんですかあ?」
 「うん、松本と安曇野は、梓川(あずさがわ)っていう川で仕切られているんだけど、安曇野って呼ば


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れるのは、その梓川のこちら側から、ずーっときて・・・あの大町市まで。松本盆地の北半分、んー、
半分よりは少し広いかな。だから安曇野っていうのは、幾つもの町や村が共有する愛称みたいな
もんさ」
 「共有するっていえば、あの犀川の水も、安曇野の人達の共有するものですねえ・・・んー、
共有してたものかな?」
 「共有は安曇野の人達だけじゃないんだよ。この松本盆地から水が出て行けるのは、ただ一ヶ
所、そこの犀川の谷だけで、この盆地に暮らしている何十万人かの人達は、全員がこの水のお世
話になった、犀川の水の家族ってところかな」
 「水の家族ですかあ・・・人も、獣も、魚も、植物も、みんな・・・ここで生きているものは
全部、あの犀川の水の家族なんですねえ・・・水の星・・・水の故郷・・・水の家族・・・水の
精ワサービ・・・全部が関わり合っていて・・・ねえっ、泉さーん、ワサービを語りながら、未
来の地球まで語れてしまいますねえ」

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