FOTOFARM信州

水の家族 (1)

                                                           28
 晃の運転する白いエクストレイルが、早朝の中央自動車道を北に向かっていた。つい先ほどま
で右手にあった八ケ岳の大きな山体も、すっかり後方に遠ざかり、諏訪盆地の底に淡く淀んだ朝
霧をくぐり抜け、塩尻峠の下を塩嶺トンネルで北に抜けた。里山の間をゆっくり降りて行く、大
きく緩やかな右カーブを終わると、滑走路の様に真っすぐな長い下り坂となった。ジェット機の
着陸のほどに時間を掛けて下って行くと、視界が一気に開け、広大な平野が現れた。松本盆地だ。
 平野は、すっかり黄色く色付いた稲田におおわれ、その背後に北アルプスの連山が数十キロに
渡る連なりを見せている。
 「ピューウッ!」 イタリア男の口笛が鳴った。
 「ここでーすかあっ、泉さんの田舎は」
 「うん、ここだけど、安曇野はもう少し先だよ。この平野は奥行きが深くてね。ずーっと先ま
で五十キロもあるんだ。穂高の位置は、その真ん中辺りになるかな」
 「あの山、ずいぶん高いですねえ。あれが北アルプスですかあ?」
 「そう、あれが北アルプスだ。全部のてっぺんに名前が付いているけど、特に高いところは標
高三千二百メートルくらいあるんだよ。だから日本の屋根なんて言われたりもするよ」
 「あー、日本の屋根・・・いいですね、日本の屋根」
 「日本の屋根は、水の故郷さ」
 「水が生まれるところ、ですね」


                                                           29
 「ワサビは水の精って呼ばれるほど、きれいな水がなくちゃ育たない植物なんだよ。だから水
の故郷は、ワサビの故郷さ」
 「えーっ!ワサービは、あんな山の中で作っているんですかあっ?」
 「違う違う、あの山の中に野生のワサビがあるんだよ。それを百年以上も昔の人が持ち帰って、
里の湧き水の所に植えたんだ。それが安曇野のワサビのルーツさ」
 「今でも山に入ると野生のワサービは、あるんですかあっ?」
 「あるよ。だいぶ山奥だけどね」
 「おーっ!私、そのワサービ見たいですっ。私、登山得意ですから、連れて行ってくださーい」
 「だから今日、渓流シューズ持ってきたんじゃないの?」
 「ピューウッ、泉さんと知り合って、私、ついてまーした」
 「天気はずっと良いみたいだから、明日の朝出掛けて奥で一泊してこようか」
 「いーいですねーっ!たーのしみですねーっ!」

 車は松本の市街地をかすめるように通過し、間もなく高速長野道を豊科(とよしな)インターで下りた。
 高速道の下を右にくぐり水田地帯を走り始めると、助手席の窓を全開にしてジーノがでかい鼻をひく
つかせている。
 「んーん、空気がおいしいねー・・・秋の匂いがしますねえ」
 と、突然、ドーンッという破裂音が窓から飛び込んできた。
 「おうっ、なっなんですかーっ!?」


                                                          30
 驚いたジーノが、でかい目をいっそうでかくした。
 「スズメ脅しだよ。刈り入れ間近だから、スズメに稲を食われないように、追い払っているん
だ。ほら、あそこにも・・・あそこにも、赤い筒が立っているだろ。自動的に一定の間隔で、ガ
スを爆発させるようにセットしてあるんだよ」
 明の答えが終わらないうちに、再び遠くの方でトーンッと鳴った。
 「田舎もけっこう賑やかですねー」
 「慣れちゃえば、これはこれで秋の風物詩、味わいの一つさ」
 「これが・・・ですかあっ?」
 「天気がいいから、先に、とっておきの所へ案内するよ」
 「どーこですかあっ、それは?」
 「俺の故郷を全部、その腕に抱えさせてやるよ」
 「???」
 
 車は長い橋を渡って上り坂を目前の里山に向かい、山際に沿って延びている国道十九号線との
T字路に達すると、それを左折して北に向かった。十分足らずで明科(あかしな)駅という小さな駅を右
手に見て通過し、間もなく信号付のT字路を右折して十九号線から外れた。JR篠ノ井線の線路を陸
橋で越えると、上り坂を百メートルほど走って再び右折し、一本の林道へと入った。入口には「長峰山
(ながみねやま)林道」と書かれた標識が立てられていた。
 長峰山は筑摩(ちくま)山地と呼ばれる低山群の西端の一山で、標高千メートル足らず、馬の背状の


                                                            31
おだやかな形の山だ。林道は、その西斜面を縫って刻まれている。舗装されてはいるものの狭くカー
ブの多い坂道が、コナラやクヌギ、ミズナラや松などの混交林を縫って続き、秋の山の香りを分けて車
は軽快に登って行った。木漏れ日がボンネットの上を心地よく滑っている。
 「おーっ!泉さーん、すごーいよ。山も街も・・・とってもいい景色ですねーっ」
 右手の樹間に、安曇平(あづみだいら)と北アルプスが見え隠れしている。
 「頂上は、もっと景色がいいからね」
 車はいったん山頂直下を南に通り過ぎたところで左折して、山の裏側へと続く林道に折れた。
 東斜面をしばらく走り、最後に鋭角な左カーブを慎重に曲がると、車は林間の駐車場で止まった。

«早苗の秘密(7) 水の家族 (2)»

当サイトすべてのコンテンツの無断使用を禁じます。
Copyright (C) FOTOFARM信州