早苗の秘密(7)
「あなたにだって大切な目標があったじゃない・・・またあの目標に向かって歩き出したらど
うかしら。あのころのあなたは・・・」
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恵子は視線を外したくなるのをこらえ、晃の瞳を見つめたまま、これまでの十数年ずっと避け
てきた話を切り出した。
「風景写真か・・・今からの進路変更じゃリスクが大きすぎるよ」
「確かに収入は減ると思う。でも、今のままで進む方が、もっとリスクが大きいと思わな
い?・・・しかも、失うのはもっと大切なものよ」
心に大きな傷を抱えた夫。この提案は、二人がその傷口の上に立たない限り語り合えないこと
だった。酷なのは分かり過ぎるほど分かっていた。だが自分も、夫も、そしてこの家族も、一歩
間違ったら取り返しの付かない岐路に立っている。それに、あの頃の、生き生きと輝いていた夫
は、けっして死んでしまったわけじゃない。私があきらめてしまったら、誰があの夫を蘇えらし
てやるんだ。逃げちゃ駄目、夫のことを、この家族の未来を本気で考えるのなら、今、勇気を出
さないと。恵子は唇が震えるのを気付かれまいと、必死でこらえながら言葉をつないだ。
「あそこには、さっきあなたが言っていた、沢山の大切なものとの関係があるじゃない。たと
え忙しくても大切なものとの関係を身近に確かめて、感じていられる環境があるじゃない。やり
くりが苦しくたって食べてさえいければ、あそこには、ここじゃ味わえない穏やかな時間の流れ
や、水や空気が・・・私はあそこに住みたいのよ。あそこで子供たちを育てたいの。この家族が
暮らしていくのに最適なのは、あそこ以外に考えられないの・・・それに・・・それに、私は本当の
あなたに会いたいの。あの日以来、あなたの中に隠れてしまった本当のあなたを私は諦めら
れないの」
長い間、言うに言えなかったものを口にしたとたん、これまでの思いが次々にあふれ出すのを、
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この夜の恵子は止められなくなっていた。今回も、この話を避けて進んだら、近い将来きっと大
後悔をする日が来るように思えてならなかった。
あの忌まわしい事故さえ起きなかったら、この家族は安曇野で暮しているはずだった。晃の実
家は農家だったので、自分たちの育てた米や野菜、地元の肉や魚を使って家庭的な洋食屋をやる
はずだった。前向きで行動力のある晃は、風景写真家としての道に向かって着々と歩んでいたし、
晃の両親も協力的で、義母など、私が接客係をしてあげると言って、その日を心待ちにしていた。
それが、あの日を境に全て変わってしまった。あの事故から数ヶ月ほどして、一度だけ安曇野
移住について話し合ったことがあった。晃は自分がPTSDであることを告白し、安曇野移住
をかたくなに拒否した。それでも恵子が説得しようとすると、晃は青ざめた顔で出て行ったまま、
一週間ほども帰ってこなかった。
恵子が晃の傷の深さを本当に理解したのは、それから間もなくのクリスマスイブの夜だった。
夕食後、生まれて間もない早苗と三人、穏やかな夜を過ごしていると、窓の外で雪が舞い始めた。
それをしばらく見詰めていた晃は、見る間に顔面蒼白となりトイレに駆け込んだ。驚いた恵子が
後を追い掛けてみると、彼は胃の中のものを全て便器に吐き出し、床にうずくまって正体を失っ
ていた。慌てて抱き起こすと、大きく見開いた両眼の視線の先は別の世界を見ているようだった。
やがて我に返り、死人の様な顔で寝室に倒れ込んだ晃を見て、この人に移住の話をするのは、も
うよそうと覚悟した。
その後も晃は家族を伴い、度々帰省することはあったが、冬に帰省することは二度となかった。
しかし、今日の晃は様子が違った。大きな時間の経過が多少でも傷を癒してくれたのか、取り
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乱しているが顔の血の気は失っていないし、逃げ出すことも無かった。
しばらく沈黙していた晃が口を開いた。
「・・・少し時間をくれないか。今が俺たちにとって正念場の分岐点だっていうことは分かっ
ている。子供たちが森で霧にまかれているのに、ぐずぐずしていて遭難させたら、取り返しの付
かないことになる」
あれ以来、晃が口にしたことの無い「遭難」という言葉をあえて使ったことに、恵子の目は驚きを
隠せなかった。同時に一条の光が差し込むのを覚えた。
「・・・辛いはずなのに、受け止めてくれてありがとう」
恵子は唇の震えるままに礼を言った。
その頬を伝わった涙を晃の手が拭った。