イタリア男 (2)
「おとといの朝、築地で面白い奴と知り合いになったよ」
深夜、都内のマンションの一室。二つ並んだグラスのジンにライムを搾り入れながら、晃(あきら)が
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言った。
「市場の撮影だったわね、どんな人?」
隣りに並んで掛けていた妻の恵子が、ナッツをつまむ手を止めて聞いた。
「イタリア人さ、三十代くらいのイタリア男だよ」
「へー、イタリア男・・・」
「初来日らしいけど、以前の恋人が日本人だったから、日本語はけっこう話せるんだよ。名前
はジーノ・・・」 晃は携帯を開いた。
「ジーノ・ジェルマーノだ」
「ふーん、日本語話せるんだ」
「ああ、お前のよりは聞き取りやすいかな」 晃がグラスを渡しながら言った。
「いーから先を聞かせなさいよ。遅いんだから」
キッチンとの間仕切りの下がり壁に掛けられた時計の針は、すでに午前零時を過ぎかけている。
「八百屋のブースでワサビのこと調べていたから、色々教えてやったんだよ」
「あら、ワサビとは、持って来いの先生だったじゃない」
「運のいい奴だね。話しが弾んで、お互いに朝飯が済んでいなかったから、場内の鮨屋で軽く
飲(や)ったんだよ。彼はフリーのフードジャーナリストで、今度、CFC出版が創刊する新雑誌のた
めに呼ばれたんだって。当分こっちで、日本各地の伝統食を取材するみたいだね」
「じゃあ、長くいるのかしら?」
「うん、時々向こうに帰るらしいが、最低二年か三年くらいはいるみたいだな」
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「そんなにいるんだ」
「話は戻るけど、青果売り場の若者が説明に困っていたから、間に割り込んで色々と教えてや
ったんだ。で、俺の田舎はワサビの産地の安曇野だって言ったら、ワサビの取材でカメラやって
くれって頼み込まれちゃったよ」
「へー、面白いことになったのね」
「ワサビは手始めで、いずれ日本のスローフード全体を取材する予定らしいけど」
「スローフードか・・・イタリアはスローフード運動発祥の地だものね」
「ほー、さすがに詳しいねえ」
「だって、うちのシェフも会員になってるもの。ファーストフード撲滅のために始まった運動
で、北イタリアの・・・何んとかっていう町にスローフード協会の本部があるのよ。いい食材を
作っている生産者や伝統料理を保護したりとか。日本にも幾つか支部があるみたいだけれど」
「へー、片山さんも会員になってるのか・・・ところで、早速だけど、今度そのイタリア男と
取材で田舎に行くことになったんだ。ワサビのね」
「でも知り合ったばかりでしょ・・・大丈夫なの?」
「大丈夫。味のある奴だけど、悪い奴じゃ無いよ」
「で、いつ行くの?」
「うん、急だけど、俺と彼のスケジュールが合うのは、次の土日月の二泊三日だけなんだ」
「そう、いいなー・・・私もくっついて行きたいけど、あいにく予定ビッシリ」
「悪いな・・・お土産、期待してて」
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「西に泊まるの?」
「うん、明日の朝、電話するよ」
「じゃあ電話する時、教えてね。私も話したいことあるから」
「分かった」
晃は自分のグラスを恵子のグラスに寄せて、カチンと鳴らした。