イタリア男 (1)
1
ゴーゴッゴッゴッゴッゴッウィーンンン
「どいてどいてーっ、危ねえよっ」
丸ハンドルとモーター付きの荷車、ターレーに乗った仲買人たちが、人混みの中を縦横にすり
抜けて行く。食材のワンダーランド、東京中央卸売市場だ。
その青果市場の一角、色とりどりの野菜やフルーツの中に、一人のイタリア男がたたずんでい
た。手にしたワサビに鼻を近づけては、しきりに首をかしげている。
「すいませーん、これ本当にワサービですかあっ?」
「本当にワサビかって・・・おいおい極上物のワサビだよ」 若い衆が威勢良く答えた。
「でも、このワサービ、辛い匂いしませんねえっ?」
「そりゃあんた、すりおろさなきゃ、ツンッとこないんだよ」
「ああ、すりおろすからツンッとくるんですかあっ」
「そうなんだよ。本物はおろさないとツンッとこないんだよ」
2
「これ、何本で千円ですかあっ?」
千円と書かれた値札を指差して彼が聞いた。
「それ一本で千円だよ」
「おうっ!これ一本で千円もするんですかあっ。高いですねえ。でも、ワサービはいいですねえ、
私、ワサービ、だーい好きです。刺身も鮨もワサービで食べると本当に美味しいですねえ」
「うん、ワサービはいいよ。ただし、本ワサービじゃなきゃ駄目だよ」
気を良くした若い衆が、ウンチクを教え始めた。
「本ワサービ??って、どんなワサービですかあっ?」
「ここにあるのが、本ワサービだよ」
「違うワサービも、あるんですかあっ?」
「粉ワサービとか、煉りワサービってえのがあるんだよ。ニセモンのワサービだな」
「ニセモンのワサービがあるんですかあっ?」
「あるなんてもんじゃないよ。今時、日本中で使ってるワサービは、ほとんどニセモンのワサ
ービだよ。」
「この本ワサービを栽培しているところは、どこにあるんですかあ?」
「ワサービの栽培は日本中でしてるけど、圧倒的に畑の多いのは静岡県と長野県だな。その二
県だけで全国の七十パーセントくらいになるかな。一番が静岡県、二番が長野県で、この二県が
ダントツに多いな」
「分かりまーした。ワサービは静岡県で一番沢山栽培されているんでーすね」
3
「ちょっと待ってくれ。静岡県はワサビ畑の総面積は日本一だが、収穫量は長野県がダントツ
の日本一だよ。長野県の安曇野というところで、全国の総生産量の半分以上が生産されてるんだ。
収穫量では長野県が静岡県の約二倍だな」
「畑の面積が二番目なのに、どうして生産量は長野県がダントツの日本一なんですかあ?」
「そこまで突っ込まれると・・・弱ったなあ、親父が居れば教えてやれるんだが、正直言って
俺はそこまで詳しくないんだよ」
「それは、安曇野のワサビ畑が日本で唯一の平地式だからですよ」
青いダンガリーのシャツを着た四十がらみの男が、二人の会話に割り込んだ。今しがた近くで、
売り場の写真を撮っていた男だ。
「おうっ、ありがとうございまーす・・・あなたはワサービに詳しいんですかあ?」
「きっと詳しいと思いますよ。私の家ではワサビを作っていたんだから」
「えーっ!ワサービを作っていたんですかあっ!」
イタリア男の黒い瞳が、でかい目の中を忙しく泳いだ。