水の国 (4)
一同が長峰山の丘の様な山頂に立った時には、午後四時を少し回っていた。
見渡す限りの平野一面をおおった無数の水田は、水鏡のモザイクとなり、北アルプスに傾いた
夕日を逆光に反射して、すでに銀色に輝いていた。
遥か右手から、大きくゆったりとした曲線を描いて近づく高瀬川、正面から蛇行して来る穂高
川、そして左手からやって来た梓川が、まるで三匹の竜のように見える。輝く三匹の銀竜が、水
の平野を横切って集まり、直ぐ眼下の押野崎で合体して、大竜「犀川」になっている。
文吉夫婦が山頂の石のベンチに並んで腰掛けた。
「あーっ、西オジと西オバで道祖神になってるーっ」
正面から夕日に照らされ目を細めた二人を、そう言って指差した光は、少し下方に設置されて
いるハンググライダーの踏み切り台を目指して、斜面を駆け降りて行った。
早苗も後を追って駆け降りて行った。
きらめく水の国をバックにして、空中に浮き立つように突き出た踏み切り台。その上に光が立
った時には早苗も追い付き、二人は踏み切り台の上で戯れ始めた。
晃たち夫婦とジーノもゆっくりと降りて行った。
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「本当に水の国ですねえ・・・秋に来た時とはまったく違う世界です」
「私もこの景色を見るのは随分久し振りだわ」
「五月の良く晴れた日の夕方にだけ出現する、水の国だよ」
三人は踏み切り台の手前で立ち止まった。
戯れている子供達の髪の毛にラインライトが入り美しい。
「今年の秋にはこの安曇野の町や村が合併して、安曇野市になるんだよ」
「安曇野市ですか・・・市町村合併には全国でも色々な意見が飛び交っているみたいですねえ。
この平野は大きくても一つの水舟ですから、未来のためには手を合わせてやっていくのが、一番
良いのかも知れません。ここはどう見ても運命共同体ですからねえ」
「ジーノさんは何時からここに住むの?」
「私は身軽ですから、住むところが見付かり次第ですねえ。今日だけでも、安曇野の歳時記の
中に散りばめられている宝石が、幾つも転がり出しましたよ。ところで、恵子さんのお店はいつ
できるんですかあ?」
「来年の春にはオープンさせたいんだけど、迷うことが多くて・・・」
「恵子、まだ迷うことなんかあるのか?」
「ええ、今日の早苗を見ていたら、小手先の面白さのために蕎麦を利用するのは、許されない
ように思えて。素質だけで、たった一ヶ月であんな真似は出来ないわ。あの子が蕎麦打ちの先に
何を見付けたのか分からないけど、あの調子で後十一ケ月修行した時、早苗にとって蕎麦打ちが
どんなに大切なものになっているか・・・」
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「恵子さん、でもそれはとっても幸せな悩みですねえ・・・私から見ると、そんな悩みが出来
るなんて、とっても幸せな家族にみえますです」
「去年の秋の悩みに比べたら天と地の違いだな。まだ時間はあるんだし、じっくり楽しんで悩
もうや」
「私もアイディア考えてみますです、仲間に入れてくださいね」
「心強いわ、ジーノさん・・・そういえば、うちの家族がうまくいき始めた切っ掛けは、ジー
ノさんとの出会いからですものね」
「それはお互い様ですね」
「お、光の色が変わってきたよ」
夕日はますますアルプスに傾き、水の平野は銀色から金色へと輝きを変えた。
踏み切り台の先に腰掛けた早苗と光が、平野の方を指差して家の位置を確かめ合っている。
山頂に腰掛けた文吉とハルも、そんな景色と下の五人を眺めていた。
「今年の春はいい春になったいねえ、文さ」
「ほんとにな、十八年振りに春が来たようだいな」
ひとまず、完
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